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「線」の心臓:情動が宿る、具象と抽象の境界

風景からポートレートへ、そして「線」への回帰。 24年ぶりのデッサン会で、私が再認識したのは「線」が持つ奥深い力でした。それは単なる輪郭ではなく、人の内面や感情、そして見えない「構造」を描き出す媒体だったのです。  曖昧さと明確さの間で揺れ動きながら現代アーティストMegumi Karasawaの今を是非ご一読ください。
「線」の回帰ー作品の幅を広げるか、明確に限定するか?


私の作品は、これまで「線」との距離を測りながら進化してきました。

昨年個展のテーマとした「風景の構造」シリーズや、キャンバスにグアッシュで描いた「ロストペインティング」シリーズでは、線から離れ、面や筆の勢い、滲みといった、偶発性に近い情動的な表現を追求していました。


しかし、この夏のグループ展でポートレートを描くにあたり、様々な技法を試す中で、私は再「線」を主とした墨一色のモノクロポートレートへと回帰しました。


ポートレートを会場で描く初めての経験で、人物の顔をどのように描いたらその人らしさを捉え、尚且つ「絵」として自分が納得できるかということを考えた時、長年培った「線」という表現に帰った(選んだ)ことが大きいです。


ポートレートを描く上で、感情や内面を凝縮して表現するには、『線』が最も純粋かつ力強い媒体だと再認識したからかもしれません。この「線」へ回帰は、私の作品の幅を広げる(あるいは、より明確に限定する)かもしれないと、今、想像を膨らませています。



「線」の再定義:カタチを切り取り、内と外を描く


デッサン会での体験は、私にとってこの「線」の意味を深く問い直すきっかけとなりました。人物画における「線」とは一体何を表しているのか?


私が今考える「線」は、単に描く対象の輪郭をなぞるものではありません。

輪郭が「カタチをなぞる」ものであるとすれば、私の「線」は、描く対象の大きな特徴を掴み、外と内に境界を引き、カタチを内外と繋ぐものです


線は、そのカタチだけでなく、その背景をも描きます。例えば、一本の線が、人物の表情だけでなく、その人の持つ過去や感情の「気配」までもを暗示するかのように。


人間の手によって描かれる線は、初めから終わりまで同じ太さ・細さではありません。この変化が、情緒に訴えかけたり、感情の起伏を表わします。線がかすれ細くなると背景を予感させ、人物に奥行きが生まれるのです。


私の作品において、具象と抽象をつなぐような「線の明確な形を捉える視点」と、それを曖昧にする「すべてを描き切らない余白」は、非常に特徴的な要素かもしれません。この形を留めるところ、すなわちデッサン力が、初めて作品を観る人にとってのフックになるのではないでしょうか。そこから、曖昧さの先に広がる私の「線」が持つ両方の特性――明確であると同時に曖昧であるという二面性――を感じ取ってもらえると信じています。



筆圧が語る心情:線に宿る情動


私が線で描いていた頃から現在に至るまで、画材は主に墨やクレヨン、木炭でした。


これらの画材の共通点は、自分が直接手に握り、筆圧一つで表現が大きく変化することです。

それは、描く人の心情や感情をダイレクトに作品に映し出します。墨の濃淡、クレヨンの力強さ、木炭の繊細な擦れ。これらの線は、単なる形態の描写を超え、私の内なる情動を表現する媒体となります。


面や滲みで感情を表現するアプローチから、再び線へと回帰したことで、私は忍耐をもって、直接的に、描く対象の「内」に潜むものや、それを取り巻く「見えない構造」を描き出そうとしています。


この「線」への回帰は、私のこれまでの創作と現在の探求を繋ぎます。そして、線と面と滲みやカスレ、滴りという偶然の要素を多彩に組み合わせながら、新たな作品のきっかけを掴みたいのです。

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