「空白」の先に:モノクローム絵画が暴く「見えない暴力性」の構造
- Megumi Karasawa
- 4 日前
- 読了時間: 6分

「作品は、一体誰のためのものなのだろうか?」
この問いは、作品が誰かにとって何かの意味を持ち得るかもしれないという期待の表れなのかもしれません。
この認識は、「自分だけの問題」という枠を越え、人類の「公僕」たれと説いたフッサールの言葉を思い出させます。たとえそれほど大きくて偉大なものではなくても、私はいつもハッピーなことよりも、シリアスな側面に目が向き、それを深く考える性質を持っていました。
これまでの私の作品は、主に風景という外界の「構造」を追求するものでした。しかし、最近参加したグループ展で「私は誰?性とは?女とは?」というテーマに取り組んだ際、これまで避けてきた自分の内面や「性(生)」をダイレクトに提示するモチーフである女性のヌードを描くことになり、大きな葛藤を抱きました。
もしかしたら、日々の役割や責任に没頭していると、ある時期の自分が空白になってしまう、という経験がある方もいるのではないでしょうか。その時、「自分は誰か?」という問いと共に、性別というアイデンティティを改めて意識させられるのは、他者の視線や眼差しであると感じました。
この経験は、空白に見える時間の中にも、他者に目を向け、寄り添うことで、自分では気づけなかった性質(良くも悪くも)を発見し、今、自分がここにいることを肯定できる、と私に教えてくれました。
この個人的な経験から、私は、作品が単なる自己表現ではなく、自分でありながら多くの「他者」の一人として存在する私を通して、「作品は誰のためか?」という視点への切り替えを迫られました。この問いを深めるために、私はアートの歴史、特にモノクローム表現の変遷と、現代の視点に目を向けました。

モノクローム絵画の歴史:単なる色の欠如ではない表現
色彩を持たないモノクローム絵画は、単に色が少ないというだけでなく、それぞれの時代で特別な意味を担ってきました。
素描・下絵としてのモノクローム: 絵画の歴史の初期において、モノクロームはしばしば完成形ではない素描や下絵、あるいは版画の表現として用いられました。これは、色による情報が多すぎる中で、形や構図、光と影といった絵画の本質的な「構造」を純粋に探求するための表現でした。同時に、色彩を排したことで、権威や規範といった目に見えない枠組みが色によって明確に区別され、それを強化するための仕組みだと感じました。
宗教的・精神的な表現: 中世のフレスコ画の下絵や、ルネサンス期のグリザイユ画法は、聖なる世界や彫刻的な厳かさを表現するために用いられました。色彩の誘惑を排することで、精神性や倫理を強調する一方で、その厳格さが特定の教義や普遍的な価値観という名の規範を強く押し出す側面もありました。
アンフォルメル絵画と東洋の墨表現: 20世紀半ばに欧州で起こったアンフォルメル絵画運動は、その直近の歴史において、モノクローム表現に大きな意味をもたらしました。彼らは具象性や構成といった従来の絵画の枠組みを打ち破り、東洋の書道や墨の表現からインスピレーションを受け、情動的な筆使いで絵画を表現するようになりました。墨の濃淡やにじみは、理性では捉えきれない人間の内面や、偶発性、そして無限の精神性を象徴する表現として注目されたのです。
ポストコロニアリズムの視点:「見えない暴力」としての「白」
このモノクロームの歴史を振り返ると、特に「白」という色が持つ多義性が見えてきます。そして、私の作品で感じた「白い色に対する偏見や暴力」は、ポストコロニアリズム(脱植民地主義)の視点と深く結びつきます。
ポストコロニアリズムは、植民地支配の歴史が現代社会に及ぼす影響、特に文化や知識、美の基準がどのように形成されてきたかを批判的に問い直す思想です。
「オリエンタリズム」と視線の暴力: ヨーロッパ中心主義的な視線(オリエンタリズム)は、非西洋世界を「異国的」「未開」と他者化し、特定の「まなざし」によって支配しました。これは、私のヌード作品における「男性の視線」が、女性を特定の役割に押し込めるように、特定の文化や人種を規定する「見えない暴力」として機能してきたのです。
「白さ」の規範性: 西洋の美術史や美学において、「白」は純粋、高貴、普遍的な美の象徴とされてきました。しかし、この「白さ」の基準は、同時に非白人を周縁化し、排除する役割を果たしてきた側面があります。私が無意識に「白い肌」を描いて疑問を抱いたのは、まさしく、この「見えない優越感」や「当たり前」とされてきた規範に対する問い直しだったと言えるでしょう。

「見えない暴力」の可視化:黒と白、そしてグレーの幅
私の昨年からの作品群は、この「見えない暴力」の構造を探求しています。
「風景の構造」で扱った「黒」は、すべてを含み、特定の感情を抱かせないニュートラルな色であると同時に、色彩が力を増し感情を持つとき、その「暴力的な魅力」を発揮すると私は考えています。コンクリートのように強固で抑圧的な「構造の暴力性」を暗示していました。
一方、今回意識した「白」い色、あるいは「バラ色の肌」という表現は、女性の肌の色や雰囲気を表すものであり、無意識のうちに「純潔」や「母性」といったステレオタイプなレッテルを想像させます。この色を使って女性を描いた私自身も、「女性はこうあるべきだ」という思い込みに支配されていたのかもしれない、と気づかされました。
「見えない暴力」の可視化は、無意識のうちに顕れるものであり、それを意図して作品をつくるとしたら、作家にとって作品はやはり「自分だけのもの」ではなく、「誰のものか?」と問い続けることだと感じています。
そして、私の作品における『白』や『黒』が持つ意味、そして『ぼかし』や『曖昧さ』といった表現は、まさにこの葛藤の表れです。
これらは、画家としての私の個人的な問いですが、同時に普遍的な『見えない暴力性』の構造を浮き彫りにします。
一見対照的な「黒」と「白」。
しかし、これらは私たちの中に抗うことのできない普遍的な「暴力性」を秘めている。この発見は、現代社会を象徴しているようにも感じられます。色を排したモノクロの世界だからこそ、或る意味そうした偏見や差別が見えにくいのかもしれません。そして、黒と白の間にある「グレー(灰色)の幅」。この中間色のグラデーションこそが、曖昧で複雑な人間の感情や、暴力性の多様な現れ方を表現する鍵だと気づきました。
21世紀の絵画:多層的な文脈と「見えない構造」への問い
21世紀は、まさに情報の洪水や価値観の多様化が進む時代です。このような時代において、モノクローム表現は、再び本質的な問いかけや、複雑な現実の曖昧さ(グレーの幅)を表現する有効な手段となりえます。
私が今回、肌の色に疑問を抱いたように、作品を描き終えて部屋に掛けている間に、「なぜ私は肌色を使ったのか?」という問いが湧きました。この制作中の「没入」から一歩引いた「観る」という時間的空白があったからこそ、私たちは当たり前だと思っていた色に対する価値観や偏見に気づくことができるのです。これは、普遍的な人物というテーマだからこそ、私たちの内にある「見えない規範」がより強く現れたのだと痛感しました。
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