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風景を描く私が、女性のヌードを描いた理由

普段、風景を描く私が、今回女性のヌードを描いたのはなぜか?  作品に潜む「暴力性」というテーマと向き合う中で、私はある重要な葛藤に直面しました。それは、作家自身の表現欲求と、鑑賞者の心への配慮という、二つの相反する視点です。 この個人的な探求が、私の創作を新たなステージへと導くのでしょうか?
過去の作品と現地点。視点が交差するポイントはどこ?

個展の準備を進める中で、私はずっと心の中にあった一つの問いと向き合っています。


「作品は、一体誰のためのものなのだろうか?」


これまでの私の作品は、自分の内面、つまり個人的な私情にフォーカスして描いてきたものでした。しかし、最近参加したグループ展で、「私は誰?性とは?女とは?」というテーマに取り組んだ際、この問いはより現実的な葛藤となりました。



作家のカタルシスと、鑑賞者のトラウマ


私は、男性が求める視線の女性像をテーマに、ある特定の女性のヌードを描きました。しかし、そのポーズを克明に描きすぎると、春画のような生々しさが生まれ、公共施設での展示には合わないと感じたのです。(※7月20日に終了したグループ展会場のこと)

そこで、リアリティを意図的にぼやかし、曖昧な表現にしましたが、その時、一つの壁にぶつかりました。


「テーマに対してどの程度のリアリティを持って描くかで、人の心に響くものが決まるのではないか?」


ぼやけて曖昧な表現では、せっかく込めたメッセージが弱まり、ビジュアルと噛み合わない。かといって、リアリティを追求しすぎると、鑑賞者のトラウマや傷を刺激し、グロテスクでプロパガンダ的な印象を与えてしまいます。

作家自身の内面的な感情を解放する「カタルシス」と、鑑賞者が作品を通して自身の傷と向き合い、それを乗り越える「昇華」は、両立しうるのだろうか?私は、この葛藤と向き合うことこそが、キュレーションの核心であることに気づきました。


1. 美術史から見る「誰のためのアート」

アートは、その歴史の中で、様々な「誰か」のために描かれてきました。


  • 古代・中世: 教会や王侯貴族のためのアートが主流でした。宗教画や肖像画は、神の教えを伝えたり、権威を象徴したりするための重要なツールであり、アーティストは「個」よりも、その役割を担う職人としての側面が強かったのです。


  • 近代: 作家の「個」や自由な表現が重視され始めますが、それでも多くの作品は、サロンやアカデミーといった社会の規範や期待に応える側面がありました。


  • 現代: 現代アーティストは、社会的な問題や政治的なメッセージを作品に込める、いわゆる「社会派アート」の存在は、アーティストが「自分」を超えて「社会」という他者と深く関わっていることの証です。


2. 専門分野から紐解く「他者のためのアート」

美術史だけでなく、他の専門分野からも、アートが持つ「他者性」が見えてきます。


  • 社会学の視点: アートは、特定の社会階層や集団の価値観、アイデンティティを反映し、形成する役割を持ちます。作品を通じて、人々は自身のコミュニティや文化を再認識し、共感を育むことができます。


  • 心理学の視点: 鑑賞者は、作品に込められた他者の感情や記憶に触れることで、自己の内面と向き合ったり、カタルシスを得たりします。アートは、鑑賞者一人ひとりの精神的な旅を助ける、静かで力強いツールとなり得るのです。



「私的なもの」から「社会的なもの」へ


これらの知見は、私がこれまで「私的なもの」として捉えてきた作品が、実は多くの社会的テーマと無意識のうちに繋がっていたことを示唆しています。


今回の女性の身体を描いた作品では、制作している間は、女性の肌の色をバラ色や白い色を使うことに疑問は全くありませんでした。しかし、作品を描き終えて部屋に掛けている間に、「なぜ私は肌色を使ったのか?」という疑問が湧いてきました。この「描いた後で観る」という時間的空白があったからこそ、私たちは当たり前だと思っていた色に対する価値観や偏見に気づくことができるのです。


これは、人物という普遍的なテーマだからこそ、私たちの内にある「見えない規範」がより強く現れたのだと思います。

そして、この気づきは、昨年開催した個展のテーマ「風景の構造」にも通じるものがあります。

去年の個展で黒い作品をコンクリートの壁面に展示した際、私は黒の持つ暴力的な力の魅力と、構造という芯から支える強さを暗示していました。今回の女性の身体表現で使った「白」い色に対する偏見や暴力は、一見対照的な色でありながら、どちらも私たちの中にある抗えない暴力性を扱っています。



交差する視点:個展という「共創の場」、現地点


これらの視点から見ると、「自分のため」に描くことと「他者のため」に描くことは、対立するものではありません。

私たちが、自分の内面にある個人的な私情を深く掘り下げること(「自分のため」)は、結果として、多くの人が抱える普遍的な感情へと繋がります。そして、それをキュレーションという手法で提示し、他者と共有すること(「他者のため」)で、作品は単なる自己表現を超え、鑑賞者自身の問いとなり、新しい意味を獲得するのです。


今回の個展は、まさにこの二つの視点が交差する場所です。 自分の半径内で留まる個人的な作品を、他者と共有することで、ひとりひとりが自分の人生や性(生)を受容し、揺らぎながらも生きていけるのではないかと思います。


しかしながら、作品の展開が見えてきません。過去の作品テーマである「風景の構造」と「ロストペインティング」という現地点。この二つの視点が交差するポイントはどこにあるのでしょうか?まだ焦点がぼやけていて噛み合わないという今の心境をここに記したいと思います。

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