アートは、なぜ「作って終わり」ではなくなったのか:時代が変えた作家の役割
- Megumi Karasawa
- 7月26日
- 読了時間: 4分

先日、私は個展の準備を進める中で、ある疑問にぶつかりました。
「作品を作ることだけが、本当にアーティストの仕事なのだろうか?」
現代のアーティストは、作品を生み出すだけでなく、SNSで発信したり、展示を企画したりと、たくさんの役割を求められます。私は正直、この「プロデュース活動」が苦手で、理想と現実のギャップに悩むことも少なくありませんでした。
この苦手意識の根底には、自分の作品を客観的に捉え、美しく、もしくは魅力的に構成することに対する羞恥心と若干の劣等感があります。作品の不完全な部分、未熟な部分ばかりに目がいき、その良さを自分で判断できず、粘り強さが足りないのだと、自己否定に陥ってしまうこともありました。
しかし、この葛藤は、決して私個人の問題だけではないようです。今日は、なぜアートは「作って終わり」ではなくなったのか、その理由を、時代や歴史の流れから紐解いていきたいと思います。
美術史の変遷:作家の役割の「越境」
少し歴史を振り返ってみます。
かつて、アーティストは「天才」として神格化され、その作品は、画廊や美術館といった専門機関によって価値づけられてきました。作品を制作することに専念し、その価値を語るのは専門家の役割でした。
ところが、ポストモダニズム以降、アートは「何が美しいか」という問いだけでなく、「なぜそれがアートなのか」「その作品の背後にある文脈は何か」という、より概念的な問いを投げかけるようになりました。これにより、作家は単なる「作り手」ではなく、自分の作品に文脈を与え、コンセプトを言語化する「思想家」としての役割を担うようになったのです。
作品そのものだけでなく、その作品が置かれる展示空間や、発表されるメディアまで含めた全体をデザインする能力、つまり「キュレーション」の視点が、作家自身に求められるようになりました。
経済の変化:画廊の時代から、マーケットの時代へ
経済の側面も、この変化を後押ししました。
従来の画廊(ギャラリー)は、作家と専属契約を結び、長期的な視点で作家を育て、市場での価値を築いていく役割を担っていました。
しかし、80年代以降、アートは金融商品としての側面を強め、オークション市場が巨大化します。これにより、作品の価値が、作家の知名度や需要によって大きく変動するようになりました。画廊が作家を長期的に支えるモデルは揺らぎ、アーティスト自身が経済的な基盤を自力で築く必要が出てきたのです。
「アートは知的第一産業」と捉え、作品の価値をどう定義し、社会にどう届けるかという視点を持つことは、もはや創作活動を継続するための必須条件となりました。
時代の背景:情報の洪水と「内面的な充実」への回帰
そして、決定的な変化をもたらしたのがインターネットとSNSの普及です。
かつてアート界の中心にいた美術館やギャラリーの権威は、SNSによって揺らぎ始めました。誰もが世界に作品を発信できるようになり、アートの世界は「中心」を失い、「脱中心化」の時代へと突入したのです。
この変化の中で、私は「セルフプロデュース」と「キュレーション」を混同していたのかもしれません。
セルフプロデュースが「どうすれば多くの人に作品を見てもらえるか」という外側の活動である一方、キュレーションは、作品の本質を深く探求し、その価値を最大限に引き出す、内側の活動です。
私は最近、ブログを書く際、初期の頃のように「書きっぱなし」で公開するのではなく、一度書いた文章を推敲し、より伝わるように編集するプロセスを大切にしています。この作業を通して気づいたのは、キュレーションとはまさに、この「ブログの推敲」と同じではないかということです。
個展は「内面的な充実」を形にする場
キュレーションは、描き終えた作品をそのまま提示するのではなく、それを展示会場という空間で再構築し、配置や見せ方を「推敲」すること。
自分の作品の不完全な部分ともう一度向き合う、苦しい作業かもしれません。しかし、文章が推敲によって洗練されるように、作品もまた、キュレーションという編集作業によって、より深い意味と説得力を獲得していくのだと今は感じています。
今回の個展では、セルフプロデュースといった外側の活動も大切にしつつ、作品世界そのものの「内面的な充実」に焦点を当てたいと思います。
完璧ではない、不完全な私の作品たちが、キュレーションという視座を持ったことで、作品を露出するという目的以上の手応えを掴めたらと思っています。
この「新しい表現形式」を実践する場として、皆さんと作品世界を分かち合えることを楽しみにしています。
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