没入する筆致:ノイズが変容する創造の閾値
- Megumi Karasawa
- 7月2日
- 読了時間: 5分

約一ヶ月、私は来るグループ展の事務作業に追われていました。日々の業務に没頭する中で、絵を描くことへの渇望が、心の中にゆっくりとモヤモヤとした感情を募らせていったのです。そして昨日からやっと、7月のグループ展で取り組むポートレートのための準備を始めることができました。
この数日間抱えていた「絵を描きたい」というモヤモヤした気分を発散するかのように描き続ける中で、私の制作は、ある意味でマイナスからのスタートを切ったと言えるかもしれません。しかし、そのモヤモヤした気分の正体が徐々に見えてきて、私自身、深く納得することができたのです。
モヤモヤの正体:内なるノイズの顕現と、その先
その「モヤモヤ」の正体とは、私のウィークポイントを意識させる、内なるノイズに他ならないでしょう。
自分が隠している見せたくない側面、後悔している過去、あるいは努力が足りないと感じる部分。それが、ある時、ある瞬間の情報や体験によって不意に明るみに出されたとき、どう対処していいか分からず、モヤモヤした感情が沸き上がり、心の奥底に沈殿していくように感じられるのです。まるで解消されずに漂う埃が、心に積もっていくような感覚、とでも言いましょうか。
日々の暮らしには、こうした小さなモヤモヤや躓き、それほど大きくない落ち込みが散らばっています。これらは、昨日議論した「ノイズ」の具体的な様相であり、私にとっては常に新しい課題であり、新たな対処法を求めるものでもあります。
人との会話や、他者の話に耳を傾ける中で点と線がつながり、自身の狭量な思考から一歩踏み出すことで、解決の糸口が見えることもあるものです。
なぜ私はこれほどまでに自分自身に「刃」を向けるような問いを投げかけてしまうのだろう、と自問することがあります。
人生は短く、他者との比較や、設定した目標をひたすら達成するだけが人生なのか。もし芸術が、単に何かを達成するためのツールだとしたら、その目標を達成した先に、一体どんな喜びや楽しみが待っているというのでしょうか。(もちろん、アートに終わりはないと思いますが。)
このような問いかけを自らに突きつけるのはなぜか。
それは、同時に「アーティスト」という言葉の定義そのものへの疑問でもあります。世間が抱く揺るぎない信念や目標達成に貪欲な「偉大なアーティスト」像と、モヤモヤを抱えながら筆を走らせる私との間に、果たして隔たりはないのか。いや、むしろその隔たりこそが、私を突き動かす原動力なのかもしれません。
この問いを深く考えた時、私が絵を描くのは、「アーティストになりたい」という初期の欲望を叶えることの、さらに先にある世界をもう一度、純粋に想像したいからなのだと気づくのです。
「描く」という行為:レム睡眠にも似た集中と変容
絵を描きながら、このモヤモヤした気持ちを掃除するように集中すると、その正体に対して、自分がどう対処すべきか、考えを切り替えることができたのです。
絵を描く行為は、私にとってレム・ノンレム睡眠中の「覚醒」にも似た状態だと言えるでしょう。
現実のさまざまな記憶や情報が互いに細かく錯綜し、動き続けている状態を、脳脊髄液で洗い流し整理しているのと、同じ仕組みなのではないかと考えています。
老廃物が循環し、記憶と情報が整理され、感情が結びつくと、制作上の閃きが起こり、同時に脳とメンタルが驚くほどスッキリします。
この「絵を描くことが睡眠と同じ仕組み」という状態は、物理的にここにいながらにして、別の次元で精神的なカタルシスを生み出します。描くことが常にこの没入に至るわけではありません。いつ訪れるか分からないこの「睡眠中の覚醒」にも似た行為は、単に作品を生むだけでなく、制作者の心そのものに深く働きかけるものです。

ノイズを養分とする筆致:無言の対話
私がこの内なるノイズ(モヤモヤ)に対し、物理的な反動として表現する時、それは筆触の激しさとなって現れます。特にドローイングでは、紙に穴が空くほど力を入れて描くこともありました。
モチーフ(風景、人物、抽象的なもの)を問わず、絵を描いているときに、過去や記憶に深くコミットした瞬間、筆が衝動的に走り出す。それはまるで、無意識の領域に足を踏み入れているような感覚、と言えるでしょう。
「ノイズ」とは、絶え間ない騒音や情報の氾濫といった、耳に刺激を与えるような存在を連想させます。しかし、実際には音のない「感覚」として、私の中に存在しているのです。このノイズに対し、私は「無言」という態度で対峙します。声は発していないのですが、その無言の声の象徴として、真っ黒な色やカスレ、シミ、力強いタッチやストロークで応答しているのです。
絵を描きながら没入することの意義の一つは、自分自身でこの「ノイズ」を消化し、変容させることにあるでしょう。それは、本を読んだり、文字を書いたり、音楽を聴いたりすることにも通じる、自力での解決が求められるプロセスなのです。
緩やかな時間の中で、創造の「その先」へ
モヤモヤした気持ちが沈殿したら、自分のできることをできるだけ崩さずに続けているうちに、自然に没入し、覚醒し、点と線がつながり、モヤモヤがスッキリする、という方向があると判ったのです。
根本的な解決や問題を完全に無くすことに力を使わず、自然に流れるように状態を把握するのが良いのです。先は長く、丁寧に、ゆっくりでいいのだと言い聞かせています。
時間は、常に冗長さを伴います。
生き急ぐことや、モヤモヤした気持ちをどうにかしようと焦ったり悲観したりするのではなく、その対処の過程を克明に観察し、時間をかけて、或いは時間を引き延ばして、時代とは逆のスピードを体現しながら、目標や目的のためだけにアートを理解し、深めるのではありません。
アートがもたらす喜びや普遍性、限りない可能性と、有限の生の営みの中で少しでも私が貢献できたらと思うのです。
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