自分がコントロールできない環境でも:生身の人間はなぜ『表現』をせずにはいられないのか
- Megumi Karasawa
- 6月20日
- 読了時間: 5分
正直に言うと、以前書いた記事「明日の楽しみ」は他の記事に比べて閲覧数が少なく、読まれていない内容です。なぜだろうかと今一度、読み返してみて、そこで伝えたかった本質が、私にとって重要な気付きであると再認識しました。それは、人間がどれほど困難な状況にあっても、無意識のうちに、あるいは意識的に『表現』することで、自らの内なるバランスを保ち、精神的な回復を図ろうとする、根源的な衝動でした。
この気づきは、私が芸術家として開業する前の事務職時代に遡ります。自分がコントロールできない環境に身を置かれた時、人間はいかにして内なるバランスを保ち、精神的な回復(レジリエンス)を図ろうとするのか。今回の記事は、当時の私の体験をベースに、日常のささやかな営みの中に潜む『表現(アート)』が、私たち生身の人間に与える根源的な意味について、深く掘り下げていきたいと思います。
理想と現実の狭間で:『苦手』な環境での無意識の表現
憧れていたけれど、実際にやってみたら想像した以上に自分に合わず苦しんだ職場や仕事内容がある。と言えば、身に覚えのある方は多いのではないでしょうか?
わたしも事務職に憧れて会社に入社したことが一度ありました。一人一台のパソコン、自分のデスクに一台の電話。オフィスで働いた経験がなかったので、一度はやってみたいと思い切って飛び込んだ職場でしたが、一週間で違和感を覚えました。三ヶ月は続けようと必死にデスクの前に座るために身体を移動させていた日々でした。
その環境と仕事内容は「苦手」という他ありませんでした。
(ちなみに「苦手」を克服した先のフロー体験については「苦手の先に「予測不能な喜び」:生身の私と創作に深みをもたらす陰影」も併せてご覧ください)
ストレス下で無意識に求めた『描く』という表現
苦手な環境と就業時間という時間の拘束の中で、私は無意識に『表現』による救いを見出していました。当時はただの『気晴らし』や『意地』だと思っていた行為が、今振り返ると、まさに内なる抵抗を形にする、私にとっての最も純粋な『表現』だったのです。
面白いことに、これは今、この記事を書きながら思い出したことです!
出勤前の10分弱だったでしょうか、図書館に車を止めて車内から見える公園の木をクロッキーしていました。それは会社勤めをしても、原点であるクロッキーを忘れたくない、という画家としての意地と誇りのような気持ちが混じっていました。
いや、画家としてというよりも、『何者にもなれずにいる自分がそこにいた』。という感覚の中で、大木の葉叢から見える薄水色のようにペンを走らせる行為は、私という存在がまだ『何かを生み出せる』ことの確かな証となりました。会社勤めをしてほぼ初めて、自分が何をしたいのか、なくしたくないものについて自覚的になったのです。つまり『画家として生きていく』という強い願望が、最悪の状況下で、カタチ帯びてきたのです。

その当時は、自分のために作るお弁当と、おかずや量に工夫を凝らすことで、唯一自分を解放できたのが、お昼の時間でした。しかし、それ以上に「描く」という行為は自分をダイレクトに確認し、精神を保つための本能的な表現行為でした。会社の中で孤立し、仕事ができない自分を認める情けなさ、片頭痛と気持ちの沈みに抵抗したのは、何も描いていない白い紙でした。
ペンと紙で充分でした。
なぜ人は『表現』をせずにはいられないのか:『レジリエンス』と創造性
私たちは、なぜこれほどまでに「表現」せずにはいられないのでしょうか。 それは、「自分ではコントロールできない環境」や「ストレスや圧迫感」という逆境の中でも、人間が自らの内なるバランスを取り戻し、精神的に回復しようとする、まさに『レジリエンス(自己回復)』の手段だからです。外からの圧迫や内なる葛藤を、形あるもの、あるいは言葉として『外に出す』行為に他なりません。そうすることで、私たちは感情を解放し、混乱した思考を整理し、自分自身を客観的に見つめ直すことができます。このプロセスこそが、心の負荷を軽減し、困難な状況に適応していくための土台となるのです。
アメリカの心理学者エドワード・デシ(1924-)は予告された報酬という実験で「予告された報酬が内的動機を低下させる」と言っています。これは人に創造性を発揮させようとした場合、報酬は、効果がないどころかむしろ創造性を破壊してしまう、ということを示唆しています。
つまり私たちは、「苦手」な環境にいることと引き換えに得る物理的な報酬(賃金など)のために、本来の創造性を発揮しにくいという性質を持ちながらも、なお工夫して、何らかの形で『表現』せずにはいられないという自発的な欲求を絶えず生み出しているのです。
日常の些細な行為に潜む『アート(表現)』の本質
わたしは、この「何らかの形でアウトプットしたもの」を、広義の『アート(表現)』と呼んでいいのだと思います。 劣悪な環境下でも、自分がコントロールできない領域にいたとしても、どこかに必ずスキマがあるように、『表現』はどこかに必ず潜んでいます。
例えば、畑で取れた野菜を差し上げるとき、丁寧に土を洗って新聞紙にくるむとか、LINEで送るメッセージを読み返して絵文字で相手に心を配るとか、あるいは今日何を食べるかを決めること。これら一つ一つの行為も、意識を向ければ、そこには自分なりのこだわりや美意識が宿り、小さな『表現』となり得るのです。

大きな作品を作ったり、道具を揃えて描くことだけがアートではない、ということを、わたしは自分に言い聞かせます。形が残らない一瞬の選択や、誰にも見られない手元の動きにも、私たち自身の『表現』は息づいているのです。
日常生活で生じる『表現』せずにはいられない。という衝動と欲求は、生身の人間の生理現象と同じように自然なことです。とても身近で自然なことです。
私たちは、自分で何かをうみださずにはいられないのです。
この『表現』の欲求は、きっとあなたの日常にも隠されているはずです。コントロールできない環境に直面した時、あるいは心が息苦しさを感じた時、あなたは何をせずにはいられないでしょうか? そのささやかな衝動に耳を傾けてみてください。それが、きっとあなたの『レジリエンス』を支える、あなただけのアート(表現)なのです。
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