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まなざしと差異

木下佳通代展より


1970年代木下佳通代は作品に芸術以外のことをできるだけ持ち込まないよう純度の高いコンセプチュアルな写真作品を多く手がけ「存在とは何か」を問い続けた

「存在も存在しないものもすべては等価である」※1というステートメントの元に作品を制作した

晩年には存在そのものを描くキャンバスの仕事に収斂していく


木下の73年の<<Untitled/む38(花時計)>>は10組からなる写真作品である

知人10人が神戸駅前の花時計を撮影した写真(花時計のクローズアップ)と各撮影者を遠景から撮影した写真の二枚を一組にした組写真である

それぞれが撮影する位置は同じである

時計が示す時刻に多少のズレはあるものの撮影した写真はどれも同じにみえる

花時計という存在は撮影者によって変化することはない

写真を撮った人物を遠景から撮影した写真は「誰が」撮影したかを記録する役目を果たしている

撮影した者を更に撮影することを連続させてしまわないようにする枠組みでもある

見ているものは同じだがその認識は異なる、という個々の内側にある見えないものを示唆する

「まなざし」と「差異(異なる人物であるということ)」を一組にしながら同一線上の出来事として扱いみることによって見えていない部分を明るみに出そうと努める

そのとき視野と認識は写真からその抒情性を取り除きあくまで記録に徹するのだ


参考文献、カタログ

※1『没後30年 木下佳通代』KAZUYO KINOSHITA A Retrospective,赤々舎,2024


「存在」を作品化する/木下佳通代<<Untitled/む38(花時計)>>
まなざしと差異/木下佳通代<<Untitled/む38(花時計)>>

「まなざしと差異」を読んでくれてありがとうございます


よく聞いたことのあるフレーズではあるがこれに尽きるなとおもうことがあった

うまくなりたいなら練習しろ。ということだ

そうアートライティングについて

できるかぎり毎日の練習と見ているものを書くこと、アートを理解するために書くプロセスを利用することが必要だ※1という

アートの書き方は実際に書いて書いての繰り返しが鍛錬になる。というのはドローイングやデッサン、スポーツでも習い事でもみな同じことだった

書いたものを情け容赦なく編集することも必要だという※1

この作業は特に省きやすい、自分の書き方の癖や物事の取り組みの癖に気付き修正する必要がある

新しい知的な運動を覚えたいのは「うまく書けるようになりたい」というシンプルな動機があるから

アートの書き方というのは、知っている範囲をより多くより広くしないと書けないということがわかった

書いたつもりになっていること、抽象的で大雑把なことばかり、内容はスカスカ

スタートはここから、どんな人だって最初は初心者だから、ここから学びが始まるのだ

今やらなければもうできないことかもともおもっている

そんなことを考えながら80分のウォーキングをした日、よく歩いたからか身体が軽い

歩くことについて面白い本を見つけたので読みたい、読書のたのしみが癒し

今週もおつかれさまでした、明日も素晴らしい日になりますように


参考文献

※1GOTO LAB監修 ギルダ・ウィリアムズ『コンテンポラリーアートライティングの技術』光村推古書院、2020年

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