自分の中心に戻す
某日、「書く」ことについての本を読みブログを振り返った
ブログを書くのは継続する何かを作りたかったからだ、気付くとわたしは積み重ねた仕事のキャリアも作品の数も乏しくて断片的で体系だったものがない
2021年から始めたIndtagramはアカバンしてそこに積みあげたと思った画像はなくなった
アカウントを取り戻そうとしたけれどダメでした、アカバンの理由はInstagramのAIがわたしのアカウントを違反とみなしたからだ、フォロワーを集めるのに必死で他者の投稿にリアクションやいいねをつけすぎていたことが原因だった(と推測している)
Instagaramの規約によると一日につけられるいいねとリアクションの数は決まっていて、それ以上になると利用者にとって悪質なアカウントとみなされてしまうそうだ、AIによるアカバンはしょっちゅう起きていて、時にはそれが全くの根拠なしに停止させられてしまうこともある
アカウントを削除されてしまう方の無念さを滲ませた報告をYou Tubeで見たこともある
今まで積み上げたものが一瞬でなくなってしまう。ということをインプットした、それからSNSの利用頻度とその距離感は常に意識していた
わたしが継続や日課に取り掛かりたいと思ったときにSNSは利用したくなかった
上記したように思わぬところでつまずくことがわかっていたからだ
各SNSを休止してブログを書くことにした、2022年にリニューアルして作ったこのサイトに毎日書くことを始めた
目的は3つだ
✔文章上達
✔テキストに慣れる
✔できるだけ長い文章を書けるようにする
内容にこだわると書けなくなるので、こうしてキーボードに向かって文字を打つだけを言い聞かせた
パチパチという規則音を切らさないように「フリーライティング」していく
とにかく自由連想で思いついたことを書くのだ
それが出来るようになったのは12月に入ってから
それまでは、ここに書く前に下書きやメモをしてある程度書いてからここにコピペしてまた修正するという方法を取っていた、これは先月までのやり方
そうしないと書けなかったのだった
ブログ画面を開くとクリーム色した何もない空白のページがあります、思いついたまま文章を書くことができない…何も書いていいかわからない…だから下書きのラフな状態で書き始めてやっと書けるという感じで時間もかかっていました
〆切もテーマもない、ただ自分が書きたいように書く。それでいいのだ思えるようになったのは開始から一か月経ってからだった、なにかキッカケがあったわけではないけれど下書きなしでも書けるかも?となんとなく思って直に書いてみたら文章が出てきたのでそれを続けているという状態
文章の下書きは絵画で言えばスケッチになるかとおもう
本作品のための準備スケッチということになるだろうか、わたしは本作品もドローイングも同等と考えていて本作品をつくるためのドローイングというものはない
下書きが必要だったのは文章を書くことに慣れていないというだけのあっさりした問題で、慣れればいつの間にかできるようになっていた。ということなんです、小学生の頃いつのまにか一輪車に乗れたとか、幼稚園の頃いつの間にか縄跳びが跳べたとか、本人の知らないうちに運動能力がついていてコツを掴んでいたという見えないタイミングがあるのです
助走は長いけれどできるときはあっけなくその時を迎えるのだ
誰に求められているわけでもない文章を毎日読んでくれる人がいて、このブログに訪れてくれる人がいることに感謝しています
人の眼に触れるものであるテキストを書くということになれば、それなりに役立つ情報や読んでよかったと思えるよう内容にすることが求められるとおもうけれど…というか自分が持っているもので他者の問題を解決するような、ヒントとなるような有益なものを書ければいいのですが、そうなると途端に何を書いていいかわからなくなります、冒頭に書いたように自分には継続したものや積み重ねたものがないからこそ文章を書いていて、その内容はこの瞬間に出てきたものなのでヒントや問題解決とかけ離れたところにいる
文章を書くことは絵を描くより自然なときがあり肩ひじ張らずに書ける
書くのは誰かと比べたり収益につながる活動にしようとおもったりしていないからです
文章を書くのは自分の状態を自分の中心に戻すことだけなんです
この状態を鑑みると絵を描くときは肩ひじ張ってしまって、誰かに認められたい・評価されたい(評価されないことの虚しさがつきまとう)、他者の仕事が気になり比較し自分の作品を自分が嫌悪するとうこともあります、絵に対する自分の向き合い方は素直とは言えず、カッコつけて自分を偽っているような気さえします、自分自身の姿より高く見せたり低く見せたり、その高低差に疲労を感じます
絵で言いたいことや込める想いがテキスト以上に「言葉」として強烈な想いがあるからでしょうか…
承認欲求や自己批判という自分にまつわるものから他者への眼差し、他者の作品への批評や批判や世間に対する偏見や敵味方といった認識など外部にまつわるものが入り混じって絵を描くことが多くのノイズを生み、自分を縛りますが一方でこれは正常な状態なのかもしれないとも感じるのです
ある意味ものをつくる人はこういった気持ちを含んで制作している気もします、それを言うか言わないかであって…
文章を書くときはそうではないので気楽といえば気楽だし、何を書くかを求められていないし自分も求めていないのでキーボードを打ちながら脈絡なく進んでいきます
これがわたしのテキストです、名付けらえれないものとしてあります
自分の声を聴きながら手を動かし自分を自分の中心に戻す時間です
「書くこと」を読んでくれてありがとうございます
自分は何かを為せる人物かもしれない。という期待と可能性から自分は何かを為せないことがわかった上で、何かを為したいという想いを持ち続けられるかということを考えるようになった
期待や可能性について考えるのは冬の寒さが厳しくなった某日、明らかに時代錯誤な違和が付きまとう
一日でどれだけのことができてどれだけを無駄にしてどれだけを睡眠に充てるかということを考えると「何かを為す」という発想そのものが抽象的でざっくりしていて現実にあり得ないものになっている
何かを為す人はいるでしょう
それはそれをする人に任せて自分は自分の生活と仕事・制作をし続けることでいっぱいいっぱいだ
自分が為すことに期待するというメンタルもそう大きくはない
だけど自分自身を生きることは諦めてはいけないというメンタルは持ち続けたい
書きながら自分の中に潜って言葉を探し現象に目を向け知らなかったことを発見します
それは毎日書きながら見つけられることもあるし見つけられるとは限らないものです、がそれを止めずに記します、切断した昨日と孤立した明日をつなぎます
今週もおつかれさまでした、明日も素晴らしい日になりますように
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