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「速さ」の向こう側へ:私の創作と向き合う「非世間的な時間軸」—ゴドーが教えてくれた「待つ」アート

人間ならではの創作の「質」を問い直し、私が出会ったのは「待つ」という、意外な創造の鍵。 「ゴドーを待ちながら」が示唆する「何もしないこと」の奥深さ、そして素材そのものが為す「熟成」のアートとは。 AIがすべてを加速する時代に、芸術が私たちに求める真の価値とは何か?
どれだけ時間をかけて、それはできたのですか?

私にとって、制作時間はいつも内なる問いでした。


「どれだけ時間をかけるべきか?」。


絵筆を握るたび、あるいは新作に取り掛かるたび、この問いが私の心の中で響き続けています。

最近読んだ小説『たゆたえども沈まず』では、ゴッホが驚くほどの速さで傑作を描き上げていく姿が描かれていました。その「速さ」こそがアーティストの資質だと。しかし、それは単なるスピードではない。「速くて、しかも絵の内容に斬新さのある全く新しい作品」こそがゴールなのだと、物語は教えてくれます。ゴッホのように、極限の集中力で生み出される作品は、まさに人間の「底力」の証明に他なりません。


この「火事場の底力」のような集中力は、確かに奇跡的な作品を生み出す瞬間があります。しかし、私はこの力が「持続可能」なものなのか、そして私たちの心身に何をもたらすのか、深く考えるようになりました。なぜなら、私自身、制作の場でこの「底力」に頼りすぎ、その反動に苦しんだ経験があるからです。


人間ならではの創作の「質」を問い直し、私が出会ったのは「待つ」という、意外な創造の鍵。 「ゴドーを待ちながら」が示唆する「何もしないこと」の奥深さ、そして素材そのものが為す「熟成」のアートとは。 AIがすべてを加速する時代に、芸術が私たちに求める真の価値とは何か?
「火事場の底力」は持続可能か?

「火事場の底力」の光と影:脳が示す驚きのメカニズムとその代償


脳科学や認知科学の世界では、「火事場の底力」は、極度のプレッシャーや緊張が引き起こす脳の特別な反応として説明されます。アドレナリンやノルアドレナリンといった神経伝達物質が大量に分泌され、普段は使われない脳の領域が活性化し、目の前の課題への集中力が極限まで高まる。これは「闘争・逃走反応」にも似た、まさに非常事態に対応するためのシステムです。


しかし、この一時的な爆発力には、大きな代償が伴います。人間は機械ではありません。こうした極度の興奮状態を維持することは、心身に多大な負担をかけ、持続的な活動を困難にします。燃え尽き症候群、慢性的な疲労、不安やうつといった精神的な不調に繋がるリスクも決して低くありません。


私が十代、二十代の頃、このサイクルを気にも留めませんでした。野望と体力をとことんまで発散できる創造的エネルギーがあり、忍耐と集中力で乗り切れたのです。 しかし、歳を重ね生活環境もスタミナも変化した今、若いころのような持続力は残されていないことを実感しました。突発的で強い瞬発力に頼ることができなくなったとき、本当にこのままで良いのかと自問しました。


それは、「量産」することが目的となってしまったドローイングと、質のバランスが保てなくなったことにも由来します。



持続可能な創造性のために:コントロールと回復という新たな「選択」


では、「火事場の底力」に頼らず、いかに質の高い創作活動を持続させていくか?

それは、この力を「非常用電源」として認識し、普段の創作をより健全な基盤の上に築くことを意味します。


1.意識的な休息とデトックス

制作から完全に離れる時間を作り、心身をリフレッシュすること。十分な睡眠、軽い運動やサークルコミュニティを通じて、全く異なる活動に没頭することが、脳と精神の回復には不可欠です。インプットとアウトプットのバランスを見直しましょう。

2.健全なルーティーンと環境配備

毎日これだけはするという日課を作る、作業空間を外部に持つ(公共施設や店舗で思想を深めるなど)、物理的・時間的なルーティンを確立することで、過度なプレッシャーに頼らずとも、自然と集中に入れる環境を整えることができます。これは、フロー状態を意識的に呼び込むための下準備とも言えるでしょう。

3.自己認識とセルフケア

自分の不調のサインやスイッチを知っておくこと。早期発見につながります、その時は無理をしない勇気を持つこと。必要であれば、友人や家族、あるいは専門家に助けを求めることも、持続的な活動には不可欠です。完璧主義を手放し、不完全さを受け入れることも大切です。

「速さ」が単なるスピードではなく、「熟練した技術」と「明確なコンセプト」が融合した上での「最適な勢い」であるならば、それは質を高める相乗効果を生みます。しかし、それを支えるのは、過度な消耗ではなく、計画的な制作と、十分な回復サイクルによって培われる持続可能なエネルギーなのです。


人間ならではの創作の「質」を問い直し、私が出会ったのは「待つ」という、意外な創造の鍵。 「ゴドーを待ちながら」が示唆する「何もしないこと」の奥深さ、そして素材そのものが為す「熟成」のアートとは。 AIがすべてを加速する時代に、芸術が私たちに求める真の価値とは何か?
世間的なスピードではない時間軸を持つことが鍵になる⁉

「選択の質」と時代との対話:私の「新しい発見・発明」の追求


偉大な画家たちは、それぞれ異なる「選択」をしてきました。ピカソやゴッホが果敢に新しい表現に「挑んだ」一方で、フェルメールや北斎は一つのテーマや技法を「熟成」させる道を選びました。彼らの選択は、個人の資質だけでなく、パトロン制度、美術市場、技術革新、社会情勢といった時代の文脈と深く対話した結果です。

では、現代の私が、そして私たちは、どのような「選択」をすべきでしょうか?グローバル化、デジタル技術の進化、そしてAIの台頭という新たな社会状況は、アーティストに新たな問いを投げかけています。


・AI時代に問う、人間の「生きた証」


AIが「速さ」と「量産」を極限まで押し進める時代において、私たちが目指す「新しい発見や発明」とは何でしょうか?それは、単なる技術的な目新しさではありません。


私は、この時代において「新しい発見・発明」とは、AIには模倣できない人間の感情の深み、哲学的な問いかけ、そして何よりも、持続可能な制作活動を通して生まれる、アーティスト自身の「生きた証」だと考えます。私の作品は、まさにこの内なる対話と、日々の心身のバランスの中で生まれるものです。

「今、挑むか、後でするか」。この選択は、単に制作のペースを指すだけでなく、アーティストとしての人生、そして作品が社会に何を問いかけるかという「選択の質」そのものです。


・時間の「醸造」と創造性


特に芸術や創作の世界においては、世間的なスピードではない時間軸を持つことが鍵になるのではないでしょうか。 スピード感を持って描いた作品は一度寝かせ、熟成や発酵状態まで何もせずに置いておく。このような選択は人間にしかできません。


・「無」の中で現れるもの:ゴドーと鉛筆画の教え


私がこの「寝かせ、熟成や発酵状態まで何もせずに置いておく」という考え方を深く意識するようになったのは、二十代前半で読んだサミュエル・ベケットの不条理劇「ゴドーを待ちながら」が少なからず影響しています。物語にストーリーらしいストーリーはなく、登場人物たちは「ゴドーが来るかもしれない(来ないかもしれない)」という曖昧な期待を抱き、ただひたすら待つ。何もしないで座っているだけの戯曲です。


そして、この「待つ」という感覚は、その頃に私が制作していた鉛筆画で経験したことと重なりました。当時、私は両手に鉛筆を握り、同時に同じ筆圧になるように力加減をして描いていました。描き進めるにつれて、こちらが意図していない形象や抽象的なものが画面に立ち現れてきた時、私は手を動かすのをやめ、ただそれが顕れるのを「待って」いました。何が現れるか、ただ画面をじっと見つめていたのです。


この二つの経験から、知識や経験、情報を加えていくことだけが創造ではないと悟りました。あるがままをただ観察する、何かが自然に現れるのを「待つ」という感覚は、東洋的な思想における「無」のような哲学的思想と重なる部分があるのかもしれません。


それは「熟成」「発酵」状態が、素材の内発的な力によって生まれるものだという感覚、つまり絵そのもの、紙という物質が自ら為す行為だという発見へと繋がります。これは、AIという形而上的な情報を扱う媒体には決して成し得ない、物質と時間、そして人間の感覚が織りなす営みだと私は考えます。


・問い続けること、芸術が求めるもの


アーティストの作品は時代を先取りしたものを生むこともあります。それは世間的なスピードとは違う「先見の明」というものですが、いかに自分に向き合うかということがますます困難になる時代に、新しい発見や問いを立てる作品を目指すのとは別のベクトルで、芸術そのものがわたしたちに何を求めているのか。 という視点で社会にコミットメントしていけたらと思います。

この問いへの答えは、まだ見つからないかもしれません。しかし、問い続けること自体が、私にとっての最も重要な「創作」であると信じています。



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