アーティストの問い:不均衡な現実に挑む『準備された即興性』
- Megumi Karasawa
- 7月5日
- 読了時間: 6分

『挑戦』と『安定』の最適なバランスを求めて
昨日も書いたように、7月のグループ展で使う本番用の紙の質が、どうにも手になじまない。筆の滑りや絵の具の乗り方がいつもの感覚と違う、そんな些細なことでさえ、私には大きな壁に感じられます。
会場では即興で生身のお客さんを約20分間で描くという、これまでにない試みに挑戦します。この特殊な状況が、制作に立ち込める霧のように、新たな「ノイズ」と「不均衡」、そして「プレッシャー」を生み出しているのです。
限られた時間の中で、この手ごわい新しい紙で挑戦を続けるべきか、それとも長年使い慣れた、まるで自分の手足のように動く紙で、確実に良い作品を描き出すことに注力すべきか。
普段と違うことをして、未知の領域に踏み出すのか。それとも、慣れたやり方で、確実な表現を目指すのか。
この選択は、単なる画材選びの話にとどまりません。
それは私が作品を通じて追求する「大胆さ」の定義そのものであり、アーティストとしての私の姿勢に関わる問いです。このジレンマは、アスリートが最高のパフォーマンスを目指すスポーツの世界や、企業を動かすリーダーシップ論で語られる「挑戦と安定のバランス」という普遍的なテーマと、驚くほど深く共通していることに気づかされました。
新しい紙への挑戦は、まさに暗闇の中へ一歩踏み出すようなリスクテイキング。
そこには失敗の恐れもあるけれど、だからこそ、これまでの枠にはまらない創造性が花開く可能性や、私自身の技術がぐんと伸びるきっかけが隠されています。
スポーツの世界で、選手が自分の実力より少し難しいくらいの「適度な挑戦」を選ぶことで、時が止まったように集中できる「フロー状態」に入ると言われるように、新しい素材が予期せぬ偶然性を呼び込み、私の「不均衡な感覚」から、思いがけない「流れ」を生み出してくれるかもしれない。そんな期待も、確かにあります。
一方で、慣れた紙で安定したクオリティを追求すること。これは、限られた時間の中で最高のものを生み出す、私にとっての「プロフェッショナルな大胆さ」だと感じています。これは、チームのメンバーが安心して意見を言えるような、リーダーが作り出す「心理的安全性」にもどこか似ています。
使い慣れた素材は、描く上での不安を取り除き、私の集中力を研ぎ澄ます確かな土台となってくれる。でも、この「安全基地」にばかり留まっていては、新しい発想やイノベーションは生まれません。だからこそ、この安定した基盤の上で、いかに「少し背伸びをする挑戦(ストレッチ)」を自分に課すかが重要なのです。
即興性、時間制限、そして目の前のお客さんとの直接的な対峙。
この状況すべてが、私の内側にある「不均衡な感覚」をさらにかき立てているのかもしれません。肝心なのは、完全に安心しきった「コンフォートゾーン」に安住せず、かといって、何も手につかなくなるような「パニックゾーン」に陥るのでもなく、ちょうど良い「ストレッチゾーン」をこの状況の中で見極めること。そして、もしリスクを取った結果が失敗に終わったとしても、それを恐れずに、そこから何を学び、次へと活かす回復力(レジリエンス)を、私自身が持ち合わせているか。それが今、問われているのだと思います。
「即興性」が拓く表現の領域:美術史の変革から現代のライブドローイングへ
そもそも即興性って、一体何なのだろう。
絵画における即興性の必要性について、ふと美術史の流れを紐解いてみました。第二次世界大戦が始まる頃からその前後にかけて、芸術界ではシュルレアリスム、、抽象表現主義といった、それまでの常識を覆す新しい芸術運動が次々と生まれました。これらの動きは、絵画の厳格な構図や完璧な完成度、画家がすべてをコントロールしようとする意図といった、古い概念に真っ向から疑問を投げかけ、新たな表現の可能性を血肉を伴って模索していったのです。
主要な芸術運動における即興性
シュルレアリスム: 1920年代から1930年代にかけて花開いたシュルレアリスムは、理屈を超えた無意識や夢の世界、心の奥底から湧き上がる衝動を重視しました。彼らはフロイトの精神分析に深く影響を受け、偶然性や非合理性を作品に積極的に取り込みました。
たとえば、詩人や画家が意識的な思考を介さずに、心の奥底から湧き上がる言葉やイメージをそのまま書き出す「自動記述(Automatic Writing)」という手法。これは、理性を介さない純粋な思考の働きを捉え、作者の意図が「描こう」とするよりも「自然に引き出す」方向へと変化していく、まさに象徴的な試みでした。
抽象表現主義: 1940年代後半から1950年代にかけてアメリカで発展したこの動きは、具象的な形を排し、感情や精神状態を抽象的な色や形、そして何よりも描く行為そのものを通して表現しようとしました。ジャクソン・ポロックのアクション・ペインティングは、その代表例です。彼はキャンバスを床に広げ、絵具を滴らせたり、投げつけたり、あるいは筆で激しく動かしたりすることで、自分の身体の動きやその瞬間の感情を直接的に画面に転写しました。
絵の具のしたたりや飛び散り、チューブから直接塗った色や手形までもが、即興性と偶然の出会いから生まれる、生々しい表現として強く求められるようになったのです。
彼らにとって、制作過程そのものがパフォーマンスであり、完成した作品はその行為の痕跡。構図が事前に決められるものではなく、描くという行為の中で偶発的に生まれるものへと、絵画のあり方が大きく変革していきました。

「準備された即興性」の重要性
これらの即興的な表現は、確かにその瞬間の衝動を捉えたものですが、その背景には必ず、確かな技術と経験、そして精神的な準備が息づいていました。これを「準備された即興性と呼ぶことができるでしょう。
たとえば、ジャクソン・ポロックのドリップペインティングは、単に絵具を適当に撒き散らしていたわけではありません。彼の作品は、長年の絵画制作で培われた身体感覚、リズム感、そして色彩への深い理解に裏打ちされていた。彼は「絵を描く時、キャンバスの中にいる」とまで言い切り、キャンバスと一体となることで、無意識的な動きと意識的なコントロールが融合する地点を、血肉を伴って探っていたのです。
彼の即興的な筆致は、無数の試行錯誤と熟練した技術の上に成り立っていました。
まるでジャズミュージシャンが、高度な演奏技術と音楽理論の知識を土台に、自由奔放な即興演奏を繰り広げるように。
画家もまた、絵画の基本的な知識や技術、そして何よりも自身の内面と深く向き合う精神的な準備があって初めて、偶発性の中に新しい美を見出し、それを唯一無二の作品として昇華できるのだと思います。
現代への継承と自身の制作への示唆
これらの歴史的な流れは、現代のパフォーマンスアートやライブドローイングにおける即興性へと、途切れることなく継承され、進化を続けています。
観客の目の前で即興的に描かれるライブドローイングは、まさに抽象表現主義が追求した身体の動きと感情の直接的な転写の、現代における姿とも言えます。
私の即興ポートレートもまた、この「準備された即興性」を目指しています。
本番で「完璧な絵」を求めすぎず、予期せぬ「流れ」にうまく身を委ねながら、画面の状態を瞬時に見極める直感的な観察力を高めること。これこそが、日々のドローイングが私に与えてくれる、最も重要な役割なのだろうと、今、改めて深く考えています。
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