即興ポートレートへの挑戦:不均衡から生まれる『流れ』と大胆さ
- Megumi Karasawa
- 7月4日
- 読了時間: 5分

今日もポートレートに試行錯誤を重ねる。
この行為は、時に私に限りない喜びと発見をもたらしますが、同時に深い葛藤と自問自答を強います。ここ数日間、私は7月のグループ展に向けた新しいポートレートシリーズの制作に取り掛かっていますが、どうにもその「調子」が掴めずにいます。筆を握るたびに「調子っぱずれな絵だな」という感覚が付きまとい、試行錯誤の時間が続いています。
この不均衡な状態にもがきながら、突破口を掴むまでは、延々とこの試練が続くのだろうと覚悟しています。
絵を描く上で「調子が出る」「調子が出ない」という感覚は、アーティストにとって極めて重要なものです。しかし、その要因は往々にして、他愛のない、些細なことだったりします。
調子を狂わせる「他愛ないノイズ」と、不均衡な日常の中の決断
調子の悪さの原因は、時に極めて物質的で日常的な「ノイズ」に由来します。例えば、いつもの絵具を切らしてしまった、長年愛用してきた筆がぼさぼさになってきた、あるいは以前に描いた「うまくいった」作品に固執し、それが足かせになっている(その場合は粘着質で厄介なモヤモヤとなる)といった、些細なことです。さらには、集中したい時に限って部屋の散らかりが目に付き、思考が途切れる。変則的なスケジュールに生活リズムが乱されることもあります。
これらのどれかに心当たりがあれば、「調子が上がらないのは、これら他愛ないことのせいだ」と、言い訳めいた理由付けをすることも可能です。しかし、これは単なる言い訳ではありません。日々の暮らしの中に散らばるこうした小さなモヤモヤや躓き、それほど大きくない落ち込みこそが、私が以前議論した「ノイズ」の具体的な様相であり、私にとって常に新しい課題であり、創作への新たな対処法を求めるものなのです。
調子が掴めない時、私はあえて、その「他愛ない違和」を解消することでバランスを取ろうと試みます。ささくれのように心の奥に引っかかっている、些細なストレスを取り除くために、速やかに絵具を注文したり、新しい筆をおろしたり、あるいは全く違う素材やサイズの紙、あるいは別のキャンバス作品に切り替えたりするのです。画材の欠品は、いつもの創作の流れを文字通り止めてしまう。物的なものが無ければ描けないのが、この仕事の本質です。
絵具を補充し、調子を見てみる。これで調子が取り戻せたら、それは確かにラッキーなことです。もし功を奏さなければ、私は潔くそのポートレート作品から離れ、別の制作へと意識を移します。この切り替えこそが、固執からの解放であり、新たな「流れ」を生み出すための、私なりの「助走」なのです。
しかし、もう一人の私が言います。「これだけが解決にはならないことがあるのだ」と。
今回は本番まで時間がありません。会場では即興で生身のお客さんを約20分間で描くという、これまでにない試みに挑戦します。この特殊な状況が、新たな「ノイズ」と「プレッシャー」を生み出しているのです。

即興ポートレートのジレンマ:挑戦か、安定か、そして「大胆さ」の選択
本番用にと用意した紙の質が、どうにも描きにくい。限られた時間の中で、この新しい紙で挑戦を続けるのか、それとも以前からずっと使い慣れた紙で、確実に良い作品を描き出すことに注力すべきか。
普段と違うことをして挑戦するのか、普段通りで良い作品を描くのか。
この選択は、単なる画材の選定に留まりません。それは、私が追求する「大胆さ」の定義、そしてアーティストとしての選択そのものに深く関わる問いです。
新しい紙への挑戦は、予測不能な要素を受け入れ、その不均衡な状態から新たな表現を引き出す「大胆さ」を意味するかもしれません。一方で、慣れた紙で安定したクオリティを追求することは、限られた時間の中で最善を尽くす「プロフェッショナルな大胆さ」とも言えるでしょう。この即興性と、限られた時間、そして鑑賞者との直接的な対峙という状況が、私の「緊張とプレッシャー」に拍車をかけているのかもしれません。
「流れ」の探求:固執からの解放と「放任」という荒療治、そしてポートレートの現在
創作における「流れ」とは、何でしょうか。
描き始めの頃は、まるで初心者のように、描くことそのものが楽しく、絵具の扱い一つ一つが新鮮で、おっかなびっくり手を加えることに緊張感があります。しかし、制作に慣れてくると、そのフレッシュな感覚が薄れていくのを感じます。気分は高揚し、どんどん描きたい衝動があるのに、絵が「流れない」。その感覚は、明確にわかります。
絵が流れないとき、私は無理に絵に触らないか、あるいは絵から物理的に離れて全く別のことをしてみます。固執する作品から一旦離れる方が、多くの場合、良い結果をもたらします。描きたくなるまで描かない、という選択もまた、重要な制作プロセスです。
物理的に距離を取り、全く手を付けず「放任」するという、ある種の荒療治を自らに課すこともあるのです。この「放任」には、単なる放置ではなく、作品が自ら答えを見つけ出すことを信頼するという、深い意味が込められています。
キャンバス作品には、一気に勢いを残したまま完成に至るものもあれば、途中で詰まってしまうものもあります。深く描き込む前に止めるべき作品もあれば、執拗に描き込んで、その過程そのものを作品に昇華させようとする作品もあります。
描くときの熱量と、使用する物量のコントラスト、その配分とメリハリは、決して均一である必要はないと、私は思うようになりました。同じだけのエネルギーを投入しなくてはならないという、かつての縛りから解放されたのです。
流れているときは、その流れに沿った動きで良い。
現在、ポートレートはどのように進んでいくのか、まだ確信はありません。現在はただ、この不均衡な感覚の中から、新たなキッカケを掴みたいと、ひたすら筆を動かし続けています。
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