あなたの「声」を探して:文体と絵画、そして表現の核心
- Megumi Karasawa
- 2 日前
- 読了時間: 4分

「優れた文章とは文体の魅力に支えられている部分が大きい。」
杉原賢彦氏のこの言葉は、文章のみならず、絵画においても真理を突いていると私は考えます。私にとって、文体は絵と等しく、自身の表現の核なのです。
私自身の「文体」を見つける旅は、試行錯誤の連続です。このブログを書き始めた当初は不特定多数の読者を意識し、どこか遠慮がちに「ですます調」で綴っていました。
しかし、やがて読む人の顔が鮮明に浮かび上がるにつれて、私の言葉は変化を遂げました。
確信への言葉、未だ見ぬ文体
特定の誰かに向けて語りかける。
この意識が芽生えたとき、私は言葉をより明確に、そして断定的に言い切る道を選びました。「かもしれない」「〜と思う」といった曖昧さを残す表現は極力排し、直接的に伝えることを心がけています。
しかし、今の私の語り口には、この断定的な言い回しと、時に垣間見える未熟な曖昧さが同居しています。このアンバランスこそが現状の私の「声」なのかもしれませんが、私自身が心から納得できる「文体」には、まだ出会えていません。それはどこに息づいているのだろうか。その「文体」を、私自身が読んでみたいとさえ思うのです。
引用した書籍には、「文体を見つけるには、多くの優れた文章に触れること」とありました。文体は、まさしくその書き手そのものを顕します。

筆致とタッチ:絵画表現における「文体」の共通点
このことは、絵画においても全く同じことが言えます。
自身の絵を磨き上げるためには、数多の優れた作品に触れ、美術史の文献にあたり、そして何よりも描く努力を惜しまないこと。
そして、最終的に求められるのは、自分自身の「タッチ」を見つけて描くことです。それが、表現者として最も急がれることであると確信しています。
私の絵画のタッチと文章の語り口には、共通する特徴があります。それは、破滅的な力強さを持つ強烈な色彩表現と、それと対比するようなナイーブな柔らかさ、繊細さです。文章では、日常の些細な気づきから大きな問いへと繋がるダイナミクスを、絵画では、先の強烈な色彩で表現しています。この両極の調和こそが、私の表現の根底を流れるものです。
文体が作品に与える影響は計り知れません。視覚的に体験するアートは、時に「目の快楽」や「手首で描く絵画」として軽んじられる可能性もあります。
しかし、文体(文字を読む体験)から触れるアートは、作品理解を深めるだけでなく、鑑賞者の形而上的な知的欲求を刺激し、アートから他の分野や社会へと目を向けるきっかけとなり得ます。これは、一人ひとりの意識を変化させるほどの大きな力を持つと信じています。
私がまだ出会っていない「文体」は、まるでまだ描かれていない絵画のように、発展途上であり、計り知れない可能性と期待を秘めたものです。
一対一で対峙する自分との対話のように深く、未知の扉を開いて初めて見る景色のように新鮮で、内側と外側をシームレスにつなぐような形を想像しています。
「アンバランス」が語るもの、そして確信
この「文体のアンバランスさ」は、私の絵画にも確かに現れています。
特に、素材選びにおいて顕著です。安価で手に取りやすい画材を使ってしまう一方で、描かれたものは本格的な表現力を追求している。
この中途半端な状態が、作品の質や私自身のプロ意識に影響していることは否めません。
高価な素材を使えば良いという話ではなく、「良いものを作るための準備が足りていないのに、描いたものは本格的」というこのアンバランスさが、見る人にある種の曖昧さを引き起こしているのかもしれません。
これは、私の創作における現状の課題であり、同時に人間としての正直な部分でもあります。
このブログを読んでくれる方は、プライベートな情報よりも、作品の質の向上と、絵画以外の分野への広がりを期待されていると認識しています。私の「カラサワメグミ」というブランドを損なわない表現であること。この意識が、私の言葉を研ぎ澄ませています。
そして、私の「断定的な言い回し」について。
本来、断定とは確固たるエビデンス、長年の幅広い知識・知見、そして深い体験に裏付けられるべきものだと認識しています。しかし、現状の私の断定的な表現は、その多くがまだ「自己主張」に過ぎないと自覚しています。
この未熟さを抱えながらも、誠実に言葉を紡ぎ、作品への確信と、アーティストとしての自立した姿勢へと向かう、私の絶え間ない探求そのものです。
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