アートの欺瞞:人間は隠しきれない矛盾に突き動かされている。
- Megumi Karasawa
- 5 日前
- 読了時間: 6分

活気づく制作スケジュールと、グループ展の現実
今年、いくつかの展覧会への参加が決まり、制作への意欲が一段と活気づいています。中でもグループ展は、作品だけでなく、人との関わりにおいて多くの学びを与えてくれる場だと感じています。
個展とグループ展では、当然ながら運営や準備の進め方が大きく異なります。
去年参加した海外のグループ展では、一人のオーガナイザーがメンバー間を取りまとめ、会場配置や展示空間の調整を主導してくれました。カタログ作成はもちろん、ポスターやチラシといった広報宣伝、キャプションの用意、事務処理や経理まですべてオーガナイザーによって行われました。
参加者は事前にカタログ作成のために出品作品の写真とアーティストステートメントを提出し、当日作品を運び、会場設営はオーガナイザー主導のもとそれぞれが壁面に展示しました。その時は自分の作品を国際便で無事に届くことだけに集中できました。
今思えば、どれほど恵まれた環境だったかを実感します。
自主開催のグループ展が直面する「危機的状況」
一方で、自主開催のグループ展となると、メンバー同士がそれぞれ意見を出し合い、運営から広報、事務処理、会場構成、集客まで全てを手分けして行うことになります。この方法は、メンバー一人ひとりに不利がないよう平等に作品を展示することを良しとする傾向にあり、結果として会場は統一的で均一な印象を与えることが多いです。
これはこれで協調性の美しさがある一方で、個々の作家の個性が埋もれてしまうという側面もあります。
もしかしたら、その画一化が暗黙の目的とされているのかもしれません。特に日本では、『右に倣え』という文化が強く、群れを乱すような大胆な発想や行動は排除されがちだからです。
しかし、絵画展も例外なく、「まとまらない」という危機的状況が必ず訪れます。それぞれが異なる目的を持って展覧会に臨んでいるのですから、当然といえば当然の成り行きなのですが、やはり行き詰まってしまうものです。
会を重ねるごとに、グループ内では常に葛藤が生まれます。新たな展開を求める革新的な動きと、今までのやり方に固執したり、あるいは面倒を避けようと簡略化したりする保守的な動き。その両者からの圧力が常に同時に存在するのです。
会場の使いかた、一人分のスペース、会費の中身、経費の使い道…。こうした些細な取り決め一つにも、それぞれのこだわりや慣習が潜んでいます。そこに外部から新しいメンバーが入った時、現メンバーの『閉鎖的な視点や既存のやり方』に疑問を抱くのは当然のこと。まさに、内部にメスを入れるのは、外部から吹き込む新しい風なのです。
グループ展のその後を見据えて:印象派展から学ぶ「人間模様」
そんな時、どんな場合でも最終的には折衷案が採択されます。私自身がグループ展に参加する際に心がけていることは、そのグループ展の「その後」を見据えて行動することです。それは、何よりも会の存続のためでもあります。
一時的な成功だけでなく、長期的な関係性や、次の機会に繋がる信頼関係を築くことを寄りどころにしていましたが、最近、その考えが大きく揺らいでいます。会の存続よりも、むしろ自分がどうしたいか、という個人的な意志を第一にしてもいいのではないか、と。
私自身、アートに限らずグループ活動が苦手で、もっと自由に、フリーで活動したいという思いを持つようになりました。『誰かのため』や『目的のため』に頑張ることは、もはや内発的な創作衝動に基づかないのだと、今はじんわりと感じるようになりました。

例えば、1874年にパリで開催された第1回印象派展。初期メンバーを中心に会を重ねましたが、毎年メンバーが入れ替わっていきました。全8回すべてに参加したのはカミーユ・ピサロただ一人だったと言われています。メンバーが変わっても会を重ねることの難しさを感じさせる印象派展の内実は、人間的で非常に興味深いものです。
金銭面や人間関係は、会の存続に大きく影響します。メンバー間の軋轢はあって当然と考えるのが、むしろ無難でしょう。私自身も、一度グループ展を企画・開催したことがありますが、内容を詰め、話し合いを重ねるごとに、それぞれのメンバーの本音と、方向性の違いがくっきりと明らかになっていきました。
あの頃は、メンバーがまとまらないのは自分のせいだと強く自己非難をしたものです。自分の力量不足だと思い込んでいましたが、今なら、それはプロジェクトにつきものの人間の本音のぶつかり合いだったと理解できます。
作品と人間性:調和と「引き」の姿勢
グループ展は、ビジネスと同じです。タイプの違う同士がうまく協力し合えるかが、プロジェクトの成功に大きく関わってきます。自分と似た人、自分と正反対の人、苦手な人、噛み合わない人、波長の合う人――本当に様々な人がいます。
人の様々な意見に耳を傾け、最終的に場をまとめられる人が一人でもいれば、プロジェクトは前に進みます。そうした人は、まるで異なる意見の橋渡しをする存在であり、場の空気を読む力と、本質を見抜く洞察力を持っています。しかし、それだけではありません。
彼らは話し合いの場だけでなく、普段から一対一のきめ細かい個人的なやりとりを通して、人よりもその人の良い部分も弱い部分も深く見つめ、感じ取っているのです。だからこそ、本質的に人を思いやり、人の痛みを理解できる人なのだと。これは人間的な大きさであり、もはや持って生まれた愛情と呼べるものなのではないかとさえ思うのです。
意見を一方的に押し付けたり、聞く耳を持たなかったりすることは、作家ならではのこだわりでもあるし、スタイルでもあります。これは時として、作家が自らの世界観を何よりも大切にするがゆえの、避けがたい側面かもしれません。
しかし、だからこそ、どこで『自分のこだわり』を貫き、どこで『全体の調和』のために耳を傾けるかのバランスが問われるのだと感じます。私自身もその点については、改めて自分を見直し、反省すべきだと感じることもあります。

様々な人がそれぞれの目的を持って展覧会に臨んでいる。という大前提に立ち、完璧ではなく、折衷案で良しとする「引き」の姿勢が、会の存続には必要なのだと私は思うのです。作品を出品するだけにしても、人との関わりは避けられません。絵画という作品だけではなく、自分の肉声で人とコミュニケートしなければならない場面が必ずやってきます。
結局のところ、グループ展は作品を展示する場であると同時に、人間そのものが剥き出しになる場でもあります。だからこそ、人間同士の欲や見栄、自尊心の表出は、絵画表現と無縁ではいられません。
人間の姿は、どこを切り取っても異なる断面が現れます。だからこそ、他者への眼差しや理解の難しさを痛感させられると同時に、人間のスケールの大きさをどこまで広げられるかというのも、グループ展の醍醐味なのかもしれません。
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