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根気よく無関心でいること

感受性の裏と表


「絵を描いている人は感受性が豊か」


この言葉を、わたしはこれまで何度か耳にしてきました

その度に自分の内面が他の人より独特なのか?と訝しく思いながら漠然とそれが「感受性の豊かさ」だと認識してきました

しかしこの豊かさは少々厄介な側面を持ち合わせています

多感で敏感であるがゆえに細かいことが気になってしまうのです

それは生活する上で地味に手強い相手となります


絵を描くときも人を見るときも、わたしはよく観察します

観察すると、たとえ言葉を交わしていない相手でもどんな性格で、どんな雰囲気の人か、様子を掴んでしまうのです

外見だけではなく、内面の思考、癖のようなものにも考えが及びます

ひとり好き勝手に妄想し、その人の輪郭を描き、ひとり困惑したり考えすぎたりします

それが行き過ぎると、人の言動の裏の裏まで読み解こうとして混乱します

他者の言動のほとんどに自分が関与しているかのような錯覚に陥り、気になって仕方がなくなります


「あの時〇〇と言ったのがいけなかったのか」

「〇〇と言わなければよかったのか」

「あれって〇〇っていう意味だったのか?」


良くないことにも想像の根を広げて、どこまでも不信になることがあるのです

それはまるで感受性の豊かさの「裏と表」のようなもので、際限がありません



関心をシャットアウトする


二〇一九年からのパンデミックを経験したわたしたちはこの混沌とした現実にどう向き合えばよいのか、感じたことのない問いを抱えたのではないでしょうか?

そんな時代にわたしが惹きつけられたのはストア派の哲学でした


それはたった二冊の入門書を読み、エピクテトスのピュシスを展覧会のタイトルにした現代アートを観たという偶然がきっかけで始まりました

COVID19を経た人類と、ストア派が生きた時代が似ている、という記述に触れた時、その思想に興味を持ったのでした

わたしが読んだストア派の書物の中で最も刺さる考え方、それは「無関心でいること」でした

一見すると、とても冷たい印象を持つ言葉に聞こえるかもしれません

しかし敢えて無関心でいること。それは関心を持つことと同じか、人によってはそれ以上に根気のいる訓練なのではないかとおもうのです


ストア派が「無関心でいるべき」と挙げるのは、富・健康・名声といった自分にはコントロールできない外部の事情です

これらは他者の意見に関心を持たず自分の本性に誠実な生き方をすることを含んでいます

ストア派の核となる「圏外/圏内」(自分がコントロールできないこと、できること)という考えにつながる部分です


わたしは自分自身の感受性や情動を「圏内」にいれるのか、「圏外」にいれるのか、まだ決められずにいます

なぜならわたしが「コントロールできる」とおもっている感受性は、時としてなりふり構わず暴走し、わたしを振り回すからです

自分の本性に誠実な生き方をするのなら、感受性というのは圏外になるのでしょうか、それとも…


日々、私たちはどれほど多くの情報や感情に振り回されているのでしょう。  私の「感受性」もまた、時に私を混乱の渦に巻き込みます。  一見冷たい「無関心でいること」という哲学が、いかに現代を生きる私たちの心に響くか、そして私自身がどうその「平静」を見出そうとしているかを綴っています。
無関心と平静と…

感受性


どんなときも感受性に振り回されるのではなく、あえて無関心でいることで得られる平静を身に付けたいとも、おもうのです

それは今のわたしにとって、そう簡単にできることではないと知っているからこそ、「根気よく無関心でいること」を、自分自身で試してみたいから

まるで台風の暴風域から抜けた明朝のように、平静という名の凪いだ海を、自分の中に見つけ出したい

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