アート作品と認知させる方法
- Megumi Karasawa
- 2月23日
- 読了時間: 3分
コンセプチュアル・アートから
昨日書いたことを再考する
いっそ描くことから離れて作品はつくれないものだろうか
描くことを選択肢から解き放つとどうなるか
Karasawa Megumi『ドローイング、描く人』2025.2.23
トニー・ゴドフリー著『コンセプチュアル・アート』の中で雑誌『アート・アンド・ラングエージ』という4人メンバーのうちのひとりトニー・アトキンソンが自分の作品をアート作品と認知させるべきアーティストたちが使ってきた方法は4つあると書いている
そのうち最初の2つは油彩などの伝統的で形態学的な特徴を持ったもの、キュビストたちのコラージュのようになにか新しいものや異なるものを加えることをあげている※1
最後の2つは現代アートが難解でよくわからないという感想を持つにふさわしい作品を読み解く頭脳ゲームのようなフェーズに入る
(3)デュシャンがやったように「アート」の文脈に異物を入れ込む
(4)なにかを「アート」と宣言してしまうこと
トニー・ゴドフリー 木幡和枝『コンセプチュアル・アート』岩波書店,2001
(3)(4)はモノとしてではなく行動や現象、過程や状況という非物質的なコトに移行したことを意味する
(1)(2)と(3)(4)の間はアートの捉え方が全くちがう
長年油彩や彫刻を作ってきて作品にコラージュを加えながらモノとしての作品を作ってきた人がいるとする
この人物がモノからコトにシフトし作品の概念をがらりと変化させモノをつくらない選択をすることはあり得るだろうか
頭の中を作り替えるような変容を経て自らの行動を記録しアートとして捉えること、これまでと全く異なる芸術をうむことはあるのだろうか
自身の芸術活動を修正することはあっても大転換する必要があるかないかは本人次第である
けれど自分のしている仕事がアートの解釈から外れている場合、現行の最低限のルールに沿わない作品であれば観客にも関係者にも見向きもされないと危機感を持ったとき大転換の判断は考慮することではではないか
わたしもまさに制作者として揺らぎながら描いてる、揺らがずに描かない人はいない
描くことを疑ってもいる、疑いながらも続けている
あまり好きではない言葉を使うけれどアート戦略は、アーティストとして立脚したいプレイヤーが個人個人で凌ぎを削り現代のアートのルールやポイントをきちんと押えスマートにクレバーに作品を放出する
原体験に限らないアート鑑賞によって射程距離は広く作品も自分自身も拡散できる時代だ
アートそのものが何かを言うことは個人個人に託され何をどこで線引きし、もしくわ線引きする必要なしとして自分であってもなくても主人公がアートというゲームを楽しめるか波に乗れるかにかかっている
アートの状況は想像に過ぎないがわたしがアートに対して憧れた時代の感覚は機能していない
頭の中をアップデートしないとならない
時代の空気を直観的に感じ違和に気付き肌感覚で快・不快を捉えて嗅覚鋭く具体的にスペースをイメージする人間がアートを自分に引き寄せるのか、どうか
モノとして作品は不要か、モノとして作品は莫大な価値うむからなくならない
パーカーのファスナーを下げたときチャックが2本に別れるようにベクトルが異なるせかいがある
今日もおつかれさまでした、明日も素晴らしい1日になりますように
♦参考文献
※1 トニー・ゴドフリー 木幡和枝『コンセプチュアル・アート』岩波書店,2001,p.p138-139
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