作業進捗:パネルに灰色
- Megumi Karasawa
- 8月18日
- 読了時間: 3分

個展に向けての制作は続いています。
前回のブログで正直に苦闘していることをお話ししました。しかし、今日は皆さんにある嬉しいご報告があります。
加筆がもたらした突破口
加筆を始めたキャンバスの3点が、少しずつ形になってきました。迷いながら重ねた筆、削り取ったり滴りなど、絵具の層が、ある瞬間から、私自身の意図を超えて、作品として語り始めたのです。
その3点が前進し始めたことで、私の心にも変化が生まれました。これまで手が止まっていたパネルにも、再び手を入れることができるようになったのです。
灰色:ニュートラルな色?
パネルには、グアッシュとコラージュという手法で初めて手が入りました。メインカラーはグレイ、灰色です。
今年1月、「まなざしと差異」という漠然としたイメージで小さなドローイングを繰り返していたとき、線と色の入り乱れをリセットする色として、初めて灰色を使いました。それは、高揚する気持ちを抑えるという心理的な意味合いではなく、まるで音を消すかのような消去。すべてをニュートラルに戻すという、一時停止の色でした。
そして、清らかな色も混色すると灰色になることから、それは、行き着くべきではない場所、あるいは、様々な感情や思考が混じり合い、どこにも属さないニュートラルな状態そのものを表していると認識するようになったのです。
美術史における灰色の探求
この灰という色に惹かれ、美術史の中で灰色が果たしてきた役割について改めて考えてみました。
灰色は、しばしば「無個性」や「無感情」を象徴する色として扱われてきました。しかし、そこに私は別の可能性を見出したいのです。
例えば、イタリアの画家、ジュルジョ・モランディの灰色は、もはや単なる色ではありません。瓶に積もった埃や塵といった粒子そのものです。彼はチューブの絵具を使わず、鉱石をすり鉢で擦って顔料を作り、対象に真に近づこうとしました。
モランディにとって、灰色は世界を構成する本質的な要素、つまり物質性と時間の経過を表現するための色だったのです。
また、現代美術においては、灰色は作家の主観を排し、絵画の客観性を追求する試みにも使われました。ゲアハルト・リヒターは、1970年代に一連の「グレイ・ペインティング」を描きました。彼は灰色を「最も非感情的で、客観的な色」と呼び、絵画から主観的な表現を排除しようと試みました。
このように、灰色は単なる中間色ではなく、物質性や客観性、そして見る者の主観を問い直す、多層的な意味を持つ色なのです。
灰色を求めて
私は、この灰色という色と、私のテーマである「まなざしと差異」が、どのように交差するのかを探求します。
制作が安定せず、無気力になることが突発的に襲う日々です。しかし、この灰色の探求という新たな入り口に立てたこと自体に、今は満足しているのです。
この色でコラージュすることの矛先がどこに向かうのかは、今はまだわかりません。しかし、この「わからない」という状態こそが、私にとっての謎であり、問いの始まりなのです。灰という色が、どんな新しい「まなざし」と「差異」を見せてくれるのでしょうか。
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