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24年振り!?:予期せぬヒントをくれたデッサン会

現代アーティストMegumi Karasawaが24年ぶりに参加したデッサン会で、まさかの「予期せぬヒント」をもらいました。  描写力を磨くはずが、感じたのは「見る」ことへの強いこだわりでした。  この体験が、私の創作をどこへ導くのか。
24~25?年振りにデッサン会に参加した。

先日、私にとって実に24〜25年以上ぶりとなる、ある体験をしてきました。それは、学生時代以来となるデッサン会への参加でした。絵の描写力を磨きたいという、極めてポジティブな動機での挑戦でした。

しかし、そこで私が得たのは、技術的な収穫とは異なる、ある種の「違和感」。そして、この違和感を深掘りしていくうちに、「見る」という行為、そして私の創作における現在地が、より鮮明に見えてきたのです。



心理学の問い:カメラのレンズと化した「眼差し」


デッサン会が始まると、私は無意識のうちに、自分の真正面にいるモデルさんを限定的に見ていました。広く大きな空間にモデルさんが存在しているという状況から切り離され、紙の上には、まるでカメラのスナップショットのように視線を切り取るレンズとしての眼があったのです。


私は何を見て、何を描こうとしているのだろう。


最初はモデルさんの右側面から見た横顔を描くことを目的としていました。モデルさんに似せるために描き始め、次第に正面、左右斜め、左側面を簡単にスケッチして、横顔の理解を深めようとしました。

しかし、私が本当に求めていたのは、モデルさんの全体像を完璧に再現することではありません。そのため、途中からは全体像を無視して、頭部、腕、肩、顔といった特定のパーツをクローズアップして描きました。


これは、単にモデルさんの全体を写実的に写し取る「記憶」を記録するのではなく、絵を描く動機と、目の前のモデルさん、そして描かれる絵そのものとの「ダイアログ(対話)」を求めていたからです。



現象学の洞察:不自然な「場」が暴く、眼差しの本質


このデッサン会という「場」そのものが、私にとって大きな問いを投げかけました。絵を描きたい人にとって「当然の場」であるデッサン会が、私には、無数のまなざしに晒された一方向の期待や欲望の対象になっているように感じられたのです。


現象学の視点から見れば、私たちの「見る」という行為は、単に外界の情報を客観的に受け取るだけでなく、私たちの身体性、意識、そして「ここにいる」という存在そのものが深く関わる体験です。しかし、デッサン会という環境は、この本来多層的であるはずの「見る」行為を、極めて限定的で、ある意味「不自然な眼差し」へと押し込めていたのかもしれません。


モデルさんは、その場の規範の中で「見られる」ことを受容し、そのポーズは「見られる」ために固定された形。そして描く側の私たちは、その「形」を効率よく捉えるための「レンズとしての眼」になっていました。そこには、相互の主体的な関係性や、感情の揺らぎ、存在の背景といったものが希薄に感じられました。



美術史・美術批評の現在地:写実の先、対話の先へ


美術史を振り返ると、デッサンは長らく、対象を正確に写し取るための基礎訓練として位置づけられてきました。しかし、写実主義から印象主義、そして20世紀以降の多様な表現の出現は、絵画が「いかに写すか」から「いかに表現するか」「いかに問いかけるか」へと変遷してきたことを示しています。


アンフォルメル絵画が、東洋の墨表現を取り入れ、理性では捉えきれない内面や偶発性を追求したように、現代アートは、単なる形の再現を超えて、作家の思考、感情、そして社会との関係性を探求します。


私のデッサン会での経験は、まさにこの美術史の変遷を私自身の身体で追体験するようなものでした。デッサン会でのわたしの不自然な描写に対する違和や偏見は、私が今、単なる写実を超えて、内面や見えない構造、そして「見られることの暴力性」といったテーマに強く惹かれていることの証左です。


この一度のデッサン会は、私の現地点がどこなのか、具象と抽象の境目、そして「目の前のモデルさんを見て描くこと」と、私が描いた女性の身体(ロストペインティングやそのシリーズ)とが何が違うのかを、深く考えさせる貴重な体験となりました。


ポジティブなインパクトを期待していた私に、デッサン会は、私の創作の深い部分を掘り下げる、予期せぬ大きなヒントを与えてくれたのでした。

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