他者について
- Megumi Karasawa
- 1月19日
- 読了時間: 3分
「声」と「顔」
某日、旧友たちと8年振りに再会した
このグループは高校を卒業して20歳までの2年間を一緒に過ごした仲間だ
10代から20代に入る多感な時に出会った学友
わたしはその頃からメンタルが安定せず気分は上下し学校には不満を抱えていた
自分を持て余していた
友人たちとたくさん話した
たくさんケンカもした
旅行も行ったしお互いの家に止まったし休日も出掛けたし、卒業後も頻繁に会っていた
一緒に過ごした期間は2年だけど、それ以上の濃さがあったようにおもう
しかし時間をかけたところで人間関係の深度はどうなるものではない
内容の濃い期間を過ごした、お互いのいいところもわるいところも包み隠さず付き合った
旧友との再会はやや緊張したけれど終始心地がよかった
付き合いの長さ、培ってきた信頼関係が安心をもたらす
自分が受け入れられている
つい最近、どうしようもなく気持ちが不安定になってひとりじゃ抱えきれないとヒヤヒヤした夜
メンタルの一時的な急下降
そのとき彼女たちの顔をひとりひとり思い浮かべた
旧友たちが大丈夫だよと言う「声」が聞こえた
こんなのは初めてだった
ふと自分がもし数日でいなくなるとしたら、どれだけの「顔」を想いかべられるだろうかと考えた
他者の「声」と「顔」
その鍵語がレヴィナスの「他者論」にわたしを引き寄せるのだった

「他者について」を読んでくれてありがとうございます
木下佳通代氏の70年代の写真作品について説明を試みる中でどう言葉にすれば良いか、どんな視点で語れるか、その技術を持てなくて悔しい
写真作品をみながら一元的でない見方があると気付いている
一元的な見方とは例えば作品のキャプションや図録、ネットのアートニュースで紹介する展覧会概要そのままに作品を見ることをいう
図録とキャプションの解説から離れる
作品には他の見方がある
「他の見方」を提示したい
作品が含有する豊かな意味をもうひとつわたしは書き加えたいのだ
なぜなら作品にはもう少し先まで展開するよう促す力がある
木下の70年代のコンセプチュアルな一連の作品は現代にあって「見る」という行為に今一度立ち止まるらせる
作品<<Untitled/む38(花時計)>>で試みた説明(批評に非ず)「まなざしと差異」で使った「差異」という単語は鍵語になるかもしれないとおもっているのだが…
「差異」を持ちこまなければならない理由があるし、その根拠が何に依拠しているか解き明かすことができるかどうか…いまのわたしには力及ばずなのが悔しい
さらにこの作品は二枚一組である必然にも言及したい
木下にとって「二つ」というのは鍵である
氏の「存在と存在しないものを等価する」というステートメントにも通ずる
「見えるものと見えないものを等価する」と言い換えるとき存在を認識するには二つは一つであることを前提とするという提示の仕方をするからだ
見えていないものをカメラで映しながら、見るとは「見えるものと見えないものが分かれていない」ことを等価し記録をしている
作品はそう考えると二枚一組であるしかない
図録解説には「存在論的な~」と書いてあった
この作品から存在論を引き出したのは図録寄稿者のうち二人いらっしゃる
存在論が引き出された理由はなぜか
わたしは理解が追い付かない、存在論を知らないからだ
作品を読む…
今日もおつかれさまでした、明日も素晴らしい日になりますように
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