某日、こんな文章を読んだ
普段の仕事や生活から離れ、ときには一人、自分と向き合って自分の内面から湧き上がるものを眺めてみること。その「内なる声」に従うことで新たな視野が開け、自分の殻を破るきっかけになるかもしれない 秋元雅史『アート思考 ビジネスと芸術で人々の幸福を高める方法』
気になったのは「内なる声」これって何?
他から離れひとりの時間を持つことがなぜ良いことに思われるか。について考えた
アートは自分の内面に向かい「内なる声」に耳を傾け衝動と情熱によって作り上げられる。という信念を持つ人は多いしわたしもそうおもっていたのだが、現代にあって仕事や育児、生活と24時間家族や他者とつながり、SNSで横にもつながり、ネット社会と切り離せない中でその一部あるいは三分の一でもそこから断絶し自分の内に向き合うことが現実的に可能かどうか疑わしい。という現状がある
自分由来のオリジナルな思想や思考を持って行動し発言し所作を決め純粋培養した作品は作れるか
アートは自らの衝動と情熱に突き動かされるものだし、実際そうであると言いたいし理想はそうだ
自分を知り、自分と向き合って、内面から湧き上がるものを眺める。仕事や生活から離れたところで…
だがオリジナルなものを創造することにのみアートは存在するのではないし衝動と情熱の他にも含まる要素によって作品がつくられる。ということもある
「他にも含まれる要素」とは何か
世界とのかかわり・対人・対生物、対マテリアルとかかわってできる作品がある
完全な集中を選択したからといって「内なる声」が聞こえるわけではない
ノイズにかき消されるだろうか、そもそも声が発せらているかどうかもわからない現実
ひとりになったからといって何かがうまれるわけでなはないし、遠からず繋がっている状態でも何かがうまれないというわけではない
あるとき決断してひとつの行動を決めても無数のノイズ・無限の未練に呑み込まれ「内なる声」に耳を傾ける。という概念だけが空しく残る
決断の中には複雑な想いや未練、未消化の感情がひしめく
二項対立から離れる
ふたつの選択
ひとつの態度
選択から逸脱する
毎日ブログを書いて気付いたことは一日たりとも同じ日はないということ
「良い日」のなかにも良くないことが含まれ
「悪い日」のなかにも悪くないことが含まれる
仕訳したら消えてしまうような小さな善悪・正誤・美醜がそこここで依存し反発し合う
ライトの当て方ひとつで判断を一元的なものに断定してしまえる怖さ
同じ日はないということは、つねに動いていること、動きだけが連続していることだ
だからネットやSNSの面白いところはつねに動き続けているということにある
動き続けるから新しいものがあり刺激を求める心にフィットする
しかし依存性があり中毒性のあるそれらを絶ちひとりになる状態を一方で求める
ひとりになってみるとわかる、聞こえるのはノイズだけ
ひとりでいても、つながっていてもひとときもひとりになる。ことがない
実際集中できるということは、ひとりきりでいられるということであり、ひとりでいられるようになるということは人を愛するようになるための必須条件である。
フロム『愛するということ』
集中することとは何か
たえまなく動く世界から一瞬間でも歩を緩め(停止とまではいかないが)止まったような状態をつくること、これが集中ではなかろうか
止まったような状態の中にあっても止まってはおらず、小さく微かに動き続けている状態
状態を遅らせて、ズラす技術
ジャッヂせず内と外の境界を薄く保つ
集中は物理的にひとりになる。ということだけを意味しない
他者、或いは事物に囲まれていても動く状態から時間をズラせるのなら現実を離れズレた空間に身を置き集中することは可能だ
内と外に関わりながらその均衡状態バランスを保つこと
完全に集中している状態とは内と外の不可分領域・閾値のバランスが瀬戸際で保たれていること
わたしが何度も書いているように他者(・或いは事物)に透明な境界線を引き感情や感覚、思考という見えないもので交流しながら自他・内外との接点を限りなくしっかりと保つ
不可分領域を曖昧にするといくつかの困難が生じるからだ
個人が個人の境界であることを保つために身体がある、身体という容器がひとりひとりを固定する
一個の物理的な個体によってこの世界に固定し存在するのに身体がいる
「つながる」→「つながるとは」→「つながるとだめなのか」
「つながらない」→「つながらないとは」→「つながらないとだめなのか」
つながりながら、つながらず、つながらずにつながる状態
物事は相反しながら相互関係によって遠く結ばれる
集中に対する漠然としたイメージを覆すとき、ノイズだらけの空間をおもう
他と離れ自分の内面と向き合うという漠然としたイメージを覆すとき、未練だらけの複雑に絡まった糸くずをおもう
アートは情熱と衝動と未練とノイズからようやく形を顕し「内なる声」という幻想を蹴散らす
わたしの実感は集中と孤独は内と外の閾値を示すものである
集中している「状態」が大事なのだ
「状態」は内と外、境界や閾値、瀬戸際のバランスに対しビビットな感覚を持ってその隙間に対する風穴を塞ぐ努力をすることであり、ノイズに対する無言という言葉を発することに他ならない
「集中と孤独」を読んでくれてありがとうございます
多分これらは「按配」の話であって個人個人の持つものさしのサイズや大きさによって異なる感覚をもつのだとおもう、そうとても個人的な感覚ではあるけれど共通するのは「按配」に対する他者への配慮と決めつけずジャッヂしないという視点を自分の中にいかに組み込むかということではないだろうか
作品をつくるときもいちばんは「手をいれすぎない」
この按配が作品を左右するのだから…過剰に対する自分の感覚を鋭くする訓練なのかもしれない
「アート思考」のセルフ・ヘルプに近い本を読んでいて気になったのはどこか表面的で人の情動を鼓舞する言葉と内容にくすぐられ、心地よい言葉の数々に酔ってしまいそうだった
以前から聞いたことのあるような単語や思考の裏にあるものがそれほど大きくもなく深みのあるものではないだろうことを直観した
アート思考は一時期流行った思考法だけどわたしは哲学的に考えたい
哲学を学ぶことはいまからでは遅いかもしれない、でも始めなければいつまでもゼロ地点
スタートが切れない、スタートを切ってから遅延について反省すればいい、まずは学ぶ
今日もおつかれさまでした、明日も素晴らしい日になりますように
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