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『ロスト・ペインティング』探求録:第二章 制作プロセスに見る「消去」と「存在の再構築」

更新日:7月12日

「女性とは何か。人間として、生命として、本来の姿とは。」顔のない人体を描くことで、私が問いかけるのは、社会の固定観念や隠れた偏見。私の作品が目指すのは、「揺らぎと混沌」の先に、皆さんが自分自身と向き合い、普遍的な問題を乗り越えるきっかけとなる対話です。
「消去」と「存在の再構築」。

いよいよ来週7月15日(火)より開催されるグループ展『第9回 菜々燦会展』では、私、唐澤恵『ロスト・ペインティング』というテーマを掲げ、新たな表現領域へと挑んだ新作の制作に取り組んでまいりました。この連載では、展覧会出品作の根源にある哲学と、その制作過程を私自身の言葉で深く紐解いてまいります。作品に込められた問いを皆様と共有することで、展覧会でのご鑑賞がより一層深まることと信じております。全四回に渡り、展覧会当日までお付き合いください。



前回公開した第一章では、私の新作『ロスト・ペインティング』に込めた「白」という色彩への問い、そして記憶と存在の変容について深く考察しました。

今回の第二章では、実際にキャンバスと向き合う制作プロセス、特に「消去」という行為が、いかに私の作品の核となり、新たな「存在の再構築」へと繋がっていくのかを、その思想的な背景と共に詳しくお話しします。



「私」という問いから絵画へ:固定観念を超えて


「女性とは何か。人間として、生命として、本来の姿とは。」

この漠然としつつも根源的な問いを胸に、私は自身の記憶を色彩に落とし込み、絵画制作を試みました。それは、頭の中のイメージをただ形にするのではなく、内側から湧き上がる感覚を、色彩という媒体を通してキャンバスに映し出すこと。この行為自体が、私自身の存在を問い直す旅の始まりでした。社会が持つ「私」や「女性」といった固定観念を超え、揺らぎの中で表現を模索するプロセスでもあります。


白による「消去」の側面:破壊と創造、そして見えない力の可視化


キャンバスに絵具を施すたび、私はある種の痛みを伴うプロセスに直面しました。チューブから白くどろりとした絵具を直接キャンバスに絞り出すその行為は、まさに私自身の内面を絞り出すかのような感覚を伴います。

白い色彩は、描こうとする他の色彩を容赦なく飲み込み、素地へと還元していきます。この抗うことのできないプロセスは、私にとって取り戻せない「消去」という名の暴力を突きつけるものでした。描けば描くほど、対象の輪郭は希薄となり、その存在は匿名性を帯びていく。しかし、この「消去」は単なる喪失ではありません。それは破壊と創造、すなわち「スクラップ&ビルド」の関係にあると考えています。


何かを消す行為は、それを無かったことにするのではなく、一度存在していたものを、形を変えながらも再び強く浮かび上がらせる行為です。これは、私たちが生きる現代社会において、古いものが壊され、そこから新しいものが生まれる絶え間ない変化のメタファーとも言えるでしょう。


この「消去」という行為の中に美を見出すかは鑑賞者の判断に委ねられますが、私自身は、この暴力を黒い色と同質に扱うことで、社会に潜むパワーバランスの危うさや、物事の価値を決める際の曖昧さ、そして隠れた偏見(バイアス)を可視化したかったのです。これは、一つの絶対的な「正しさ」や「美しさ」といった固定観念に疑問を投げかける問いかけです。


「女性とは何か。人間として、生命として、本来の姿とは。」顔のない人体を描くことで、私が問いかけるのは、社会の固定観念や隠れた偏見。私の作品が目指すのは、「揺らぎと混沌」の先に、皆さんが自分自身と向き合い、普遍的な問題を乗り越えるきっかけとなる対話です。
私の作品中には顔を描いていません。

不在が語るもの:「顔なき身体」による自由な解釈


声にならない声、言葉にならない言葉、感情にならない感情。


これらは、私の作品中に顔を描いていないことで表現されています。特定の個人を想起させる要素を排除することにより、特定の心情や感情、思考を鑑賞者に想像させることを意図していません。

そこに描かれるのは、個人的な声や言葉、感情を奪われた姿としての、顔のない人体です。特定の顔がないことで、鑑賞者は特定の誰かを見るのではなく、より普遍的な「人」の姿として受け止めることができます。


これはまた、歴史的に女性の身体が晒されてきた「見つめる目(まなざし)」の構造から身体を解放し、客体化された視線から切り離す試みとも言釈できます。作品において、見られる身体、つまり描かれた人体が個人の名を喪失していくとき、そこにあるのは果たして崇高な美なのでしょうか? 私が提示したいのは、美醜を超えて、ただそこにある現象の一部になるという状態です。


作品が特定の意味や解釈を固定せず、多義的で開かれた構造を持つことで、鑑賞者は受動的に「見る」だけでなく、能動的に作品の空白や曖昧さを読み解き、自身の内面と共鳴させながら新たな意味や物語を創造することができます。顔の不在は、鑑賞者が自身の経験や記憶を投影し、作品と共に「個人的な声」を再構築する自由な余地を与えるのです。


「女性とは何か。人間として、生命として、本来の姿とは。」顔のない人体を描くことで、私が問いかけるのは、社会の固定観念や隠れた偏見。私の作品が目指すのは、「揺らぎと混沌」の先に、皆さんが自分自身と向き合い、普遍的な問題を乗り越えるきっかけとなる対話です。
どんな鑑賞体験を目指しているか?

鑑賞体験:「揺らぎと混沌」の先に生まれる自己との対話


私の絵画が目指す鑑賞体験とは、まさに「揺らぎと混沌」です。鑑賞者が自身の体験や過去に遡り、個人的な記憶や感情と作品が共鳴することで、自己と他者が抱える普遍的な問題を乗り越えるきっかけとなるような、内省的な対話が生まれることを願っています。


作品は、完成された意味を与えるのではなく、常に変化し、新たな解釈を生み出し続ける開かれた存在として、鑑賞者に主体的な関与を促します。



次回予告

今回の記事で、作品における「消去」のプロセス、そしてその奥に潜む美学と意図について、皆様に深く考察いただけたなら幸いです。

次回、第三章では、この「消去」の先に位置する「存在の再構築」というテーマをさらに深く掘り下げていきます。どうぞご期待ください。

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