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『ロスト・ペインティング』探求録:第一章「白」が語る記憶と存在の変容

この根源的な問いから始まった『ロスト・ペインティング』。私の人生に現れ始めた『白い色』は、老いや衰退の象徴である一方で、忘れかけていた記憶を呼び覚ます色でもありました。チューブから絵具を絞り出す行為は、まさに内面を絞り出すよう。消去という名の暴力、そして「フー・アム・アイ」という問い。  今回の新作に込めた、個人的でありながら普遍的な問いの根源をブログで深掘りしています。
「白」が語る記憶と存在の変容について。

いよいよ来週7月15日(火)より開催されるグループ展『第9回 菜々燦会展』では、私、唐澤恵『ロスト・ペインティング』というテーマを掲げ、新たな表現領域へと挑んだ新作の制作に取り組んでまいりました。この連載では、展覧会出品作の根源にある哲学と、その制作過程を私自身の言葉で深く紐解いてまいります。作品に込められた問いを皆様と共有することで、展覧会でのご鑑賞がより一層深まることと信じております。全四回に渡り、展覧会当日までお付き合いください。



「ロスト・ペインティング」に込めた問い


「ロスト・ペインティング」は、心に宿る記憶や経験が、時間の流れの中でどう変容し、時には輪郭を失っていくかを、『白』の色彩を通して探求する試みです。この作品は、自然の摂理である老いや衰えと対峙する自己の存在の揺らぎを、静かに、そして深く見つめ直すものです。


かつて私の制作において、若々しい生命エネルギーの象徴であった『黒い色』


それは、精神的なタフさを求め、弱さや脆弱さを克服するように力任せに用いた色であり、記憶の扉をこじ開けようとする執着の表現でもありました。しかし、私の人生に現れ始めた『白い色』は、老いや衰退、縮小へと繋がる新たな象徴として立ち現れます。


一方で、断片的で曖昧な記憶をつぎはぎするように現れる『青い色』は、忘れかけていた記憶を呼び覚ます、予期せぬ色でもあることに気づかされました。

女性とは何か。人間として、生命として、本来の姿とは何か。この漠然とした、しかし根源的な問いの中で、私は自身の記憶を色に落とし込み、絵を描こうと試みたのです。



制作プロセスに見る「消去」の兆し


チューブから白くどろりとした絵具を直接キャンバスに絞り出す行為は、まさに私自身の内面を絞り出すようでした。白い色は、描こうとする他の色を容赦なく飲み込み、素地へと戻していきます。

その際、素地へと戻すことに抵抗を感じた時、わたしは何を守り、何を失うかについて考えざるを得ませんでした。現実世界で起きていることをどこか他人事のように捉えていた自らの人生が、まるで夢から覚めるように、はっきりと目の前に立ち現れたのです。


このプロセスは、取り戻せない「消去」という名の暴力を私に突きつけました。キャンバス上に現れる匿名の体、そして背景と余白の境が混沌とする様は、声にならない声、言葉にならない言葉、感情にならない感情そのものを視覚化したものです。絵具の生々しさと筆のタッチが、体に向けられる他者の多方面からのまなざしと重なり、まるで印象派のような筆触となって画面に飛び散ります。見られる体、暴露される体が、個人の名を喪失していく瞬間に、私は何を見るのでしょうか。


匿名の身体に他者は自分を重ね、他者が自分の身体を共有します。そして、自分と他者という境界を作品を通して再構築し、その「閾値(しきいち)」を更新するのです。


「消去」とは、過去の記憶や感情が失われること、そして物理的な要素が取り除かれていくことです。これらは、実存する自分の身体という物体が、色を失い外界の現象の一部になるということを意味しています。つまりそれは、身体を伴いながらも、現象の一部として点滅し続ける「生」そのものなのです。


画面がだんだんと白く、靄に包まれていく中で、私は成熟をピークに衰え、喪失していく時間を目の当たりにしました。それは、一抹の情さえ奪い去る「白い恐怖」であり、私はただただ、それに怯えていました。その恐怖は、まるで凍てつく氷のように、私を縛りつけようとしました。


「フー・アム・アイ(わたしは誰なのか)」。


この問いは、私を『白』という色彩の根源へと導きました。それは、私自身の記憶と存在の変容を映し出す色だったのです。


「女性とは何か。人間として、生命として、本来の姿とは何か。」  この根源的な問いから始まった『ロスト・ペインティング』。私の人生に現れ始めた『白い色』は、老いや衰退の象徴である一方で、忘れかけていた記憶を呼び覚ます色でもありました。チューブから絵具を絞り出す行為は、まさに内面を絞り出すよう。消去という名の暴力、そして「フー・アム・アイ」という問い。  今回の新作に込めた、個人的でありながら普遍的な問いの根源をブログで深掘りしています。
チューブから白くどろりとした絵具を直接キャンバスに絞り出す。

「白」の探求:記憶と存在の変容


今年の二月、私はキャンバスのメインカラーを白とすることを決意しました。白は、私にとって記憶を喪失する様、思い出せない感覚、言葉が出ない戸惑い、存在の揺らぎ、恐怖、そして忘却の象徴でした。


時の止まりと身体の変化


いつからか時が止まったかのように、成長と成熟のピークは頭打ちになり、以後、同じような道を延々と行ったり来たりしているように感じられます。歳を取る感覚も、歳を取った実感もなく、鏡に映る自分の姿を見る暇もなく家事に追われる日々。しかし、ある日、次のフェーズに移るかのように、髪に白いものを見つけるようになりました。一本、また一本と、以前より増える白髪に、衰えや老いをはじめて意識したのです。まるで砂時計の砂が落ちるように、毎日一本ずつ増えるよりもっと速いスピードで、いずれ黒い髪が白い色で覆われるだろうと予感させるかのようでした。


そういえば、顔のシミや顔色の黒ずみも気になり始めました。目を疑うほどの外見の変化は、私の心理に小さく、しかし深く影響を与えました。わたしもいずれ人生の舞台から降りる時が来るのだと。それはまだ遠い先のことかと思っていたけれど、微かに、そして確実に、黒いものを白くさせていく老いを受け入れるようにと促されているかのようでした。変化はゆっくりと、しかし体内ではものすごいスピードで破壊される細胞があるという事実を突きつけられました。


身体の声と「積極的な諦め」


その時、私は意志とは別の声を聞いた気がしました。身体の声です。この身体からのサインを察知し、自分の行動に反映させました。それは、過少も過剰も求めない「積極的な諦め」。この概念は、私の制作において、受け入れることが難しいと感じていたものでした。

しかし、体力的な限界や、意志でコントロールできない状況というものを知ると、できる範囲というのはとても狭く限られたものだという事実を突きつけられました。狭く限定されたものが小さいほど、私の力の及ばないものに対して戦いを挑もうとは思わなくなりました。


黒の執着から白の表現力へ


かつて私が好んで黒い色で制作していたとき、精神的なタフさに憧れ、肉体的な健康は精神力で維持できるものだと信じていました。弱さや脆弱さ、繊細さを克服するように力任せに黒を用いたことを隠しはしません。黒い色を使って記憶は呼び覚ませるものだと力任せに扉をこじ開けたとき、その反動で、白い色を使いたくなりました。白い色は「消去」という暴力を内包する一方で、黒い色と同じだけの力強い表現力を持つと直感したのです。作家は、或る種の非常に暴力的とも言える破壊性を持ち作品を作ります。


創作における「破壊性」と美


わたしはうまく描きたいと思って作品を作り始めることがあります。しかし、その気分は一瞬で消え、手を動かせば次第に自分の中にある無意識の暴走が始まり、画面に対して力の限り、負の感情や絶望的な心情を叩きつけます。動機よりも過程が大事というのなら、その過程には人には見せたくない醜いものを吐き出しています。

これが作品となるとき、ポジティブに変換されるとは思いません。しかし、作品は絵としてまとまった美しさではなく、直線的ではない逡巡や迂回したことで生まれる美しさを宿すのです。


暴力的で破壊的なエネルギーを使うことで、絵筆を叩きつけ、紙を破り、穴を開けて痛めつけますが、そこで自分の非力さを悔しく思うことがあります。鋭い刃を持ち画面を引っ掻いて汚して傷をつけても、わたしの指も手もまだ足りません。作品を生み出す破壊的衝動には迷いがあり、切なさがあり、吹っ切れない未練があるからなのです。


「白いもの」からの勇気と自己へのコミットメント


ジョゼ・サラマーゴの小説『白い闇』、坂本龍一展で体験した《霧の彫刻#47662》、ハン・ガン『すべての、白いものたちへ』、ロラン・バルト『喪の日記』…。

これらの「白いもの」をテーマにした作品に囲まれて自分自身の不在を考えたとき、この世に留まる意識と欲望の証として、わたし自身の記憶を思い出そうとしていました。白い色をモチーフにしたこれらの作品は、この世とあの世をつなぐ媒介者となります。それらの作品が、自己の内面を包み隠さず提示していることに、私は勇気付けられ、自身の作品を深く進めていくことができました。


白い靄がすべてを見えなくする前に、この世にいること、自分という存在に固執してしまう自分に気づき、ハッとしたのです。


次回の予告


この『白』の探求は、私自身の『不在の意識』と向き合い、この世に留まる意識と欲望の証として、私自身の記憶を呼び覚まそうとする深いコミットメントです。展覧会では、この『白』が織りなす記憶と存在の変容を、ぜひご自身の目でご体感ください。


次回は、制作プロセスに見る「消去」と「存在の再構築」について掘り下げます。私の創作における新たな地平を開いたその瞬間を、次回の記事でお伝えします。どうぞご期待ください。

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