デ・クーニングの絵画
2014年から2015年、ブリジストン美術館で開催された「ウイリアム・デ・クーング」展の図録を開いた
筆の勢いと絵具そのものの物質感が特徴のアンフォルメル絵画
表現主義の初期の代表のようなものに映るがしかし、女性の身体や表情は残り過ぎている、ここからもっと先に進みかたちがなくなってしまうところまで人体を解体し発展しさせなかったデ・クーニング、デ・クーニングが残した余白…わたしたちの眼はそれが何かわからないほど抽象化したものに慣れてしまっている、「色」そのもの「キャンバス」そのものをアートを捉えアートそのものの意味を拡大したからだ
デ・クーニングの絵画が当時からすればそこまでやった人はいないであろうところまで先を進めたがいまではまだやりきってないないと映る、それでもえぐいほど魅力的でヤバい
この絵に惹かれるのはなぜだろう
デ・クーニングの絵は塗り絵やポスターではない、なまの表現だ
メッセージや思想はない、なまなましい命だ
解読したり汲み取ったりひとつの方向へ行動を促すようなものではない、描かれた「人間」は筆を持つ人間から生まれたものだ、それなのに絵具そのものが生き物になったようなドロリとした感触と荒い息遣いの人間がこちらに向けて発している
叫声なき声、無音でありながら大きな声がはっきり聞こえる
夏以降新しいシリーズを開始してキャンバスにグアッシュで描いている
絵を描く動機となった出来事ははっきりしているがそれらから離れて絵を描いている
今夢中になっているのは絵画そのものだ
人体表現を試みているキャンバスには男女がいる
他者との境界
キャンバスに描かれた男女は抱き合っている、体と体を寄せ合い密着している
このときほど他者との境界を感じることはない、体があるということはそういうことだ
ピカソは抱き合う男女をふたつの物体としての描いた、ガチャガチャと大きな音がするように体を絡ませるふたり、ふたつのロボット
そのカタイ体をひねりながら距離は近づき濃密なのに決して同じシルエットとして描かれない、ひとつになることはない、他者への拒絶にも感じられてわたしには悲しい男女の姿に映るのだ、ピカソは身体を解体しない、だからこそ冷たい風が吹く
キュビズムを通して体やその器官をバラバラに描いたように見えるが解体しない
体そのものから逃れられずむしろそれを強調している、決して解体できないモノから離れられなかった
デ・クーニングの描く女性はどんなに暴力的な筆使いで荒々しく描かれようとも最後の最後は消せないモノとしての存在を残していた、これは他者との物理的な境界を留めるものだ
他者との境界が曖昧になってしまうことを精神分析学では「自他境界」という
ここから人体表現を紐解くと作品の見かたは変化する、さらにわたしが描く男女はどうなっていくかということ、、これはほんとうにおもしろい試みです、これについてはまだまだ書いていく必要があります
「他者との境界」を読んでくれてありがとうございます
わたしの絵画は面白い方向へ向かっています
この一連の仕事がどうなるか楽しみです、さらに「自他境界」という精神分析学を調べてみたら自分の描くものに直接・間接的に影響を及ぼすものが何かわかるかもしれませんしわからなくても新しいことはどんどん知りたい…自分自身の人間としての面白さをもっと探求していくといいのかもしれません
自分をフラットに見ることってできないものです、だから自分を他者に委ねてしまうんです
何らかのバイアス、レイヤーで基準を設けてしまうんです、自分自身を自分に委ね信頼し破綻しないようにすることができない、それを突き抜けちゃってる人にもっともっともっと出会いたい
それは必ず出会うはずだから大丈夫という謎の自信を持っています、これから新しい人と出会うのが楽しみでなりません
ブログを毎日定量書くということを実践中です、内容は問わずキーボードを打つことに集中し、書くことに慣れていきます、次の文章をひねり出さねば書けないという状況です…自然に手が動くというまでにはなりません慣れるまでの辛抱です、いまは日課をつくることが目的で内容は二の次です
先は長い、今は焦らずペースを掴むこと、やり過ぎてはいけない定量を知る…シンプルなことなんです、ことなんですけどなかなか身に付かないので困ります、頭の隅にはブログを「書かない」と一日を終えられないとおもって書いています
今日はキャンバスに絵を描いてデ・クーニングに面食らったのでそれを記事にしました
読んでくれてありがとうございます
今日も一日おつかれさまでした、明日も素晴らしい一日になりますように
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