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時間の、音読

手のひら


三日前からブログを書いた後の手応えを掴んでいます

これまで素直に言えば「書きっぱなし状態だった記事」から、一回読み直して、人に伝える文章に整え直すということを始めたからです

その作業で、具体的に書くところと、比喩を用いて文章を生き生きするようにと工夫を凝らしています

まるで実験のようで私自身も楽しく感じています

比喩ひとつにしても、自分が感じたことにもう一度ぐっと近づき、その本質を捉えるような言葉を見つけるのです

流行りの言葉で言えば、「解像度を上げて、ちゃんと観察し、言葉と感情の距離を詰める」という作業になります

以前なら「身体の不調」とだけ書いていたものを「体の怠さと微熱、冷えからくる悪寒」と具体的に書くことで、読む人が身に覚えのある症状だと肌感覚を伝えるようにしました

そうすることで、自分の身に起きたことの具体化が自分の気持ちをそこに代弁しているのだと感じるようにしています

ほんの少し言葉遣いを変えるだけで、文章が生き生きと立ち上がることに驚いています


最近ストア派の哲学について書いたのですが、書き終えた後に「自分でコントロールできるものは僅かである」ということに気付きました

この「僅かなもの」に気付いたおかげで、「多くのものは手放していいんだ」という許可をもらった感覚があり、カタルシスを感じました

数年前「あなたは自分のことばかり考えている」と言う言葉を投げられたことを思い出しました

その時、自分のことを考えるのはいけないことなのかと自問しました

他者を優先して自分を奉しさせることができないことに苦しみましたが、やはりわたしは自分を捨てることはできませんでした

自分の気持ちを無視して痛み、喜ぶことはできないというのは、わたしが僅かなものを大切に持っているという証拠でした


自分がコントロールできないものの方が圧倒的に多く、煩わしいほど自分に密着しているので、どれが自分でどれが外部のものか、判断できないくらいになっていました

余談ですが、人間は一日に三万五千回も選択するそうです

その三万五千回の中に自分がコントロールできるものと、そうでないものを線引きせずにいたら、判断疲れに陥るのは当然なのかもしれません


外部の事情や、他者に関することは手放し、この手のひらに抱える僅かなものに集中しようとおもいます

自分の手のひらに抱えるだけで精一杯になるのだから、自分の大きさ以上に大きいものは手に余ります

大きすぎる洋服も靴も帽子も、似合わないどころか必要ないのです


音読するように


というわけで、わたしはいま自分の作品の仕上げを着々と進めています

展覧会に向けて地味だけど重要な作業に取り組んでいるところです

今回の作品は絵と同じくらい文章も必要な作品なので、言葉を書くことと向き合っているところです


「書きっぱなしの文章から人に伝える文章にしたい」という意識をもったとき、わたしは編集者の役割りを担うことになりました

それと同じように絵も描きっぱなしにしてはいないかと、自分の作品を振り返ると、編集者の役割りをする人がいなかったのです

絵でいえば、それはキュレーターやギャラリストということになるでしょうか


わたしは自分にキュレーターやギャラリストの視点を取り入れ、絵もまた「人に伝える」ものになるように、工夫と実験をしたいと考えています


自分が書いた文章が人に伝えるものになっているかどうか、最終的に確認するのは「音読」がいいと聞きます

ならば、絵も「音読するように」最後の確認をどうやってすればよいか、その具体的な方法を見つけることにわたしの目が向いています


それは時間を置くということです

時間に追われて描いた先からどんどん発表しないこと、です

わたしは小さなドローイングを描いた先からSNSに投稿していた時期があります

そのときはなぜか追われるような感覚でスピードを重視し、絵を見返すことはありませんでした

描き終えたら数日でも、数十日でも、それ以上の期間を設け、誰にも絵を見せず生活空間に置いておき、文章が立ち上がってくるように絵から立ち上がるものを見届けることが大事なのではないかとおもうようになりました

それはスピードを上げて、どんどん描いて展覧会をして…というサイクルに適うものではありません

手元に置いて毎日生活して絵を見ていれば、何度も音読をしているのと同じことになる気がします

わたしにはその時間を持ててませんでした、常に焦っていたからです

投稿を目的としてからかもしれませんし、手を動かしていなければ絵を描いていることにならないと思い込んでいたのです


絵にもっと近づいて解像度をあげて作品を人に届けたい

その実験として言葉と絵の両方を同じように考えています

言葉が立ち上がるのは絵をよく見ようとしているからなのです


言葉が立ち上がるのは絵をよく見ようとしているからなのです。Megumi Karasawa |Japanese contemporary artist
言葉が立ち上がるのは絵をよく見ようとしているから


友人のはがき


友人と知人の個展のハガキが届きました

作品を作る先輩として彼らの定期的な活動はわたしの意欲を鼓舞させるものです

ですが、ほんの一年前まではそうはいきませんでした

自分の活動がうまくいっておらず、作品露出も断続的だったことから、ジェラシーを感じて、嫌な気持ちになったものです

けれど、嫉妬にまつわる名声や富といった類のものは手放していいものなのだと思えたら心が楽になりました

感受性や感情や心情をやたらめったに活動させては疲弊します

過敏な反応でスタミナ切れになっていたのです

友人と知人の活躍は、もはや嫉妬の対象ではありません

わたしは着々と進んでいます

時間を緩めた分だけ、クリアーに見えるものがあるのです


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