可視化されない行為
某日、午前中はダウン
身体に不調を感じて休みました
悪寒がし足先が冷えないように厚手の靴下と長いガウンを着込み午前中のキラキラした冬の太陽の眩しさから身を背け眠りの世界に逃げ込む
前の晩は悪夢にうなされる
ぞっとして深夜目が覚め眠りが浅く起床後から憂鬱な気分を引きずってしまいました
いつもより食欲もなく、少し食べて40分読書
まったく頭に入ってこない、理解できそう、アベコベの心理状態で読書に疲労を感じる
こんなときはほとんどイメージの世界に身を投じることができないから、先月の続き「手描き新聞」のペン画を進めました
ペン画は規則的な方法で描けばどんどん仕上がっていくので成果がわかりやすい
どれだけ描いたか達成が目に見えるので調子が良くなくても没入できます
これをすると数時間でどれだけできたがわかり、できた分を自分が認めてあげられます
時間内にどれだけできたか目に見える量となって現れる仕事があります
1、何もない画面に行為が足される仕事
2、何かある画面に行為が引かれる仕事
ほとんど1の仕事がすぐに思い当たります、自分が動いた分だけ量が増える仕事です
2は例えば草取りや掃除のように自分が動く分だけ量が減っていく仕事です
この仕事の特徴は行為の跡にスッキリした気分になることです
ちなみにわたしがよく見るYou Tubeの「よく食べる人たち」の動画もとんでもない量が徐々に減っていく過程を見るものです
どちらも自分が動いた分だけ増減するものの存在を確認できることがベースにあります
この増減が全く見えないと人は不安になります
この不安は行為を行ったことが確認できないため自分の存在が消され「無意味」さを感じたり、投入した時間が「空虚さ」に代わることに耐えられないことから起きる現象です
成果物に対する可視化されない行為に自分の存在に対する否定(自己否定)を感じるのです
しかし痕跡の残らない時間があるという前提のもと、どれだけこの「時間」を捨てればいいのでしょうか、捨ててしまっていいものなのでしょうか…「否定」するということはそういうことです…
可視化されない行動/時間の痕跡が怖いのは以上のように自己否定の側面を持つからでしょう
成果物に現れない「行動/時間」という時間の取り扱いが作品の層に影響しないはずはありません
時間に対する認識を同じくらいの総量を持って取り扱い「現れないものに現れる」という逆説に向かって可視化されていくのです
没頭
絵を描く時間と文章を書く時間は同じはありません
文章を書く時間は幼い頃絵を描いていた時間と似ています
幼いころ絵を描く時間がすきでした
同じような時間の感覚を持っていたのは長距離走を走るときでした
運動は得意で運動神経は良い方で学生時分の持久走大会は苦しいけれど没頭できました
持久走大会…スタートの合図と同時に子どもたちがちりじりになり、ひとりひとりが自分のペースで誰とも話さずゴールに向かって走ります
この時間がすきでした、自分ひとりになれるからです
自分と相談してペース配分を考え自分を励ましながらゴールする
自分の中にいることが心地よかったのです、自分を信頼していました
長距離走は自分と向き合える時間で、これは絵を描く時間と同じものでした
大人になってもずっと自分と向き合う時間を求めてその時間を失わないようにしていました
大人になったからこそ、この時間の確保は難しく子どものときよりどれだけ大切かを知ることになりました
いまこの時間を「書く」ことにも向けています
書くというシンプルな行為はほっとできる時間です
時間が長くなり過ぎて寝るのが遅くなってしまうこともあります…
集中すると新しい何かを発見しこの小さな喜びを自分と一緒に共有します
気付くといつからか当たり前になっているのは絵を描きながら自分不信に陥ること・自分に対して疑心暗鬼になることです、絵を描く時間はとても怖くなりました
どうして自分に不信感を持ち疑いの刃を向けるのでしょうか
いつからそれが始まったのでしょうか
その問いに目を向ける時間が「書く」ことにあります
絵を描きながらこたえを発見できるでしょうか…わかりません
わからないけれど絵を描く時間はやって来ます
「見えない時間の考察」を読んでくれてありがとうございます
体調が揺らいだときは「できた」ことに目を向けます
毎日当たり前のようにしている家事やルーティーン、ひとつできたら良しとします
ひとつできると次につながる、次につなげたら夕方になる頃には体調は回復しました
毎日同じ日は一日もありません、自分自身もそうです…それが当たり前でそれが毎日というものかもしれませんね
今日もおつかれさまでした、明日も素晴らしい日になりますように
Comments