「花時計」の予言:過去のブログが導いた個展のテーマ「まなざしと差異」
- Megumi Karasawa
- 8月5日
- 読了時間: 2分

ここ数日、ブログを通して制作への葛藤や内省を綴ってきましたが、今回はついに、私の個展のテーマを皆さんにご報告したいと思います。
テーマは、「まなざしと差異」です。
この言葉にピンときた方もいらっしゃるかもしれません。このテーマは、今年1月に私が書いたブログ記事、「メモ: まなざしと差異」から生まれました。あの記事は、木下佳通代展を観に行き、作品<<Untitled/む38(花時計)>>を鑑賞して綴ったものです。数年間、私が一つの風景画を描く中で感じた、社会に潜む「見えない暴力性」や、その根源にある「まなざしの力学」と併せて今回の個展のテーマに選びました。
「見られることの違和感」がテーマへと昇華するまで
去年の仕事で私は風景を描く時と、女性の身体を描く時に生じる「まなざし」の差異について考察しました。風景を描く時は、私の視線はその「構造」を捉えようとします。しかし、女性の身体を描く時は、そこに社会的な「まなざし」や、過去に経験した「見られることの違和感」が無意識に介入してきます。
この「まなざし」が持つ力、そしてそれが生み出す「差異」こそが、私の創作における重要なテーマなのだと確信しました。個展では、このテーマをさらに深く掘り下げ、形にした新作を発表します。
身体の輪郭を超えて:線が語る「差異」
私の作品における「まなざしと差異」は、特に「線」の表現に色濃く表れています。以前、デッサン会での体験から「線」を再定義した記事で、「線は単なる輪郭ではなく、その内と外、そして背景をも描く」と書きました。
線は、身体の輪郭を描きながらも、その奥にある感情の揺らぎや、社会の「まなざし」によって作られた「差異」を可視化する役割を担います。明確な輪郭を描きつつも、筆圧の変化や余白によって曖昧にすることで、私たちは目の前の身体を単なる「モノ」としてではなく、内面を持つ「存在」として捉え直すことができるのではないか、と考えています。
このテーマは、私がこれまで取り組んできた「ロストペインティング」のシリーズや、デッサン会で感じた「不自然さ」への考察など、去年までの「風景の構造」に共通するものになりました。
この個展が、皆さんが日々の中で無意識に感じている「まなざし」や「差異」について、他者と自己について改めて思考を巡らせるきっかけとなれば幸いです。
展覧会当日まで紆余曲折があると思いますが、ひとまずテーマも決まり進む方向が見えてきました。過去のドローイングを元に、作品に昇華するべく、いよいよ本格的に仕事に取り掛かろうと思います。
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